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2021年11月01日00:17

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新宮・熊野市紀行4 徐福の墓

 10月8日金曜日は浮島の森から一旦新宮駅へ戻り、駅の東方にある徐福(ジョフク)の墓〔新宮市指定史跡〕へ赴きました。
 https://www.google.com/maps/@33.7256358,135.9947421,19z
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 徐福は斉王国琅邪(ロウヤ)郡の出身で、西暦紀元前210年に秦の始皇帝の命で不老不死の薬草を求めて東方の蓬莱(ホウライ)山へ船出した実在の人物です。司馬遷(シバセン)の『史記』によると、徐福は3000人の童男童女と百工(多くの技術者)を従え、財宝・財産・五穀の種を持って出航したものの蓬莱山には到らず、「平原広沢」を得て王となり、秦には戻らなかったとされています。
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 西日本各地に徐福が上陸したとの伝説のある場所があり、去年訪れた佐賀市もその一つです。
 https://mixi.jp/view_diary.pl?id=1975705874&owner_id=250900
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 紀伊国の伝承では、徐福は新宮に上陸して住み着き、その従者達と共に大陸からの文化や農耕、捕鯨や漁業に関する技術を伝え、当地で歿したとされています。
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 南宋の臨済僧で、弘安2(1279)年にモンゴル人支配を嫌って日本へ亡命して来た無学祖元(1226〜86)は、渡来した徐福の境遇と自らを重ね合わせた詩を弘安4(1281)年頃に作っており、当時、徐福伝説が定着していた事が判ります。
 南北朝時代の五山文学の代表者である臨済僧の絶海中津(ゼッカイチュウシン;1334〜1405)が熊野の徐福祠を取り上げて論じており、当時、熊野が徐福上陸地として知られていた事が判ります。
 慶長6(1601)年から元和4(1619)年まで新宮城主を務めた浅野忠吉が徐福の墓の原型をデッチアゲたと推定されていますが、紀州藩初代藩主の権大納言徳川頼宣(ヨリノブ)が墓碑建立を思い立ち、儒臣の李梅渓(リバイケイ;1617〜82)に「秦徐福之墓」の文字を書かせました。しかし、すぐには建立されず、第6代紀州藩主の権大納言徳川宗直の代となった元文元(1736)年に至って漸く緑色片岩製の墓碑建立が実現し、李梅渓が揮毫(キゴウ)していた文字が用いられました。
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 徐福の墓に隣接して北斗七星の形に造られていた七塚がありました。これは徐福の七人の従者の墓であるとも、徐福が大陸から持参した遺品を埋めた場所であるともされて来ました。
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 天保5(1834)年に紀州藩の儒学者である仁井田好古(ニイダヨシフル;1770〜1848)が筆を揮って徐福顕彰碑が作られましたが、和歌山から運送中の船の事故により海没してしまい、実現しませんでした。そこで、昭和15(1940)年の皇紀2600年の記念事業の一環として、残存していた文書に基づき徐福顕彰碑が建立されています。
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 私が40年前に訪れた際には、ごく小規模な墓所でしたが、平成6(1994)年に至って中国風の楼門が建てられ、以後、コロナ禍が起きるまで大量の中国人観光客が押し寄せる地となりました。
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 そのうち、邪悪な中共政権は「日本列島は2200年前に徐福が発見したのだから中国領なのら〜」と言い出すでしょうね。
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 徐福公園には天台烏薬(テンダイウヤク;Lindera strychnifolia)が植えられています。
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 天台烏薬は、徐福の求めた不老不死の霊薬の正体ではないかとされているのです。
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《続く》
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