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2021年04月04日21:51

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エヴァが終わった・・3 シン・エヴァンゲリオン劇場版 <アスカとマリ> 「ドキュメント、個人性と社会性」 「君を幸せにする」

シン・エヴァンゲリオン劇場版の完結編。

<アスカについて>

見た直後の感想はいくつかあったが、ひとつはアスカとマリの存在と、それがどうなったかが不明だなということ。自分として理解できない。

関連動画を見て、自分なりに考えを整理した。これはあくまでも自分なりの整理なので、合っているとか、正解ということではない。

まずアスカ。これは声優の宮村優子への愛憎があるのだろう。だから「新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に」のラストで、鳥みたいな使徒にめちゃくちゃに食いちぎられ、左目を槍で貫かれる。

宮村優子への庵野監督の思いは、時折表明されたり、言及されたりした。

「シン・エヴァ完結編」でも、ついに人間であることを放棄して、使徒化し、訳のわからない最期を遂げる(無駄死にみたいな最期)。

クローンであり、個人という存在がない綾波レイ。それに対してテレビ版(旧劇場版)でのアスカは過去が語られ、母親との関係性もあった。シンジに近い人間型パイロットだった。個人としての存在感があった。
それが「新劇場版」ではアスカも式波とされ「波型」、クローンとしてのエヴァ・パイロットになっていた。人間がクローンになる。これほどの悲劇があるだろうか。最初からクローンでそれを自覚している綾波に対して、後で自分がクローンであることを知らしめされるアスカ。そしてケンスケとのつながり。
旧劇版までのアスカには、年上の父親的な加持へのストレートな愛情表現、シンジへの素直になれない感情表出の底にある好意が見られたが、シン・エヴァではもっとクールで覚めて、透徹した現実認識がある。自分の役割への自覚があ理、それに生きる”諦めに似た使命感”のようなものを終始たたえている。

<マリ>
マリ=安野モヨコ

安野夫人は、庵野監督の10歳下。世代としては1世代異なっているが、遠くもない。
ということで、研究室で、碇や冬月の後輩という設定だし、昭和時代の曲を歌ったりする。「シン・エヴァ完結編」では冒頭、「真実一路」を歌い、「世界は二人のために」を歌いながら、激戦を戦い、勝利する。

シンジのことは常に「ワンコ君」と呼ぶ。完全にマリが上の立場で、シンジは手のひらで弄ばれるような存在。

テレビ版、前劇場版と、その後の「4部作」との間で、異なっているトピックスは、庵野監督の結婚。氏は安野モヨコさんと結婚する。私生活面で大きく異なるのはこの点。そして庵野氏は安野さんに大きく支えられ、大きな愛情を抱く。その心情は、『監督不行届』コミックス版の「あとがき」でこれ以上ないほど赤裸々に真摯に語られている。

「シン・エヴァ完結編」は、マイナス宇宙ですべての事柄に決着がつき、シンジが28歳の大人のシンジとなって、故郷宇部の駅のホームにマリといる。向こうのホームにはレイとカヲル君がいる。その線路を挟んだ向こう側は、今までの全ての虚構世界であり、こちら側だけが現実世界。現実世界にいるのはシンジとマリだけ。

マリだけがシンジと一緒だし、現実世界にいる。自分(シンジ)が愛する、そして支えてくれているパートナーだから。

という流れ・構図になっている。

結婚してその妻に大きく支えられ、包み込まれ、現実世界を平穏に過ごせている。それはいい。しかし普通、それは作品世界とは関係のないことで、作品世界には影など落とさない。ましてやその人物を画面に登場させることなどない。宮崎駿が、富野由悠季が、押井守が、自分の奥さんをアニメに登場させることなど考えられるだろうか。

普通なら、夫人に支えられたとしても、その頑張りをもとに、良い作品を作ろうとアニメ制作に立ち向かうだろう。

だが庵野氏は、画面に丸々夫人を出し、冒頭からラストまで、特別な存在として、貫通させる。映画のフレームそれ自体。マリで始まりマリで終わる。その中で何がどう起きても大丈夫という、絶対の信頼。

これは常々庵野氏が、「エヴァはドキュメンタリー」だと言っていることに対応する。

庵野氏にとって、アニメを作るということは、全編個人的なリアリティの裏付けがなくてはならない。それは嘘ではないこと、の彼なりの表現であり、誠実さなのだろう。それは学生時代に作ったウルトラマンの特撮映像作品で、自分がパーカーを着てウルトラマンとして登場したことから一貫している。

それが彼の資質の独自さから複雑な様相となる。その点についてはオタキング氏が解説しているように、オマージュの真剣な引用が、彼にとっての切実さ=儀式・儀礼的なものとなり作品にちりばめられる。というより作品を覆い尽くす。

通常、作品の複雑さは、富野作品や押井作品は、社会性や組織論や濃密な形而上性などとなって現れるが、庵野監督の場合は他の映像作品を、自分が忠実になぞることで、それが果たされる。

それをオタキング氏は、庵野作品の「呪術性・儀式」と呼ぶが、庵野氏の幼児性でもあるだろう。幼児性は心理学で指摘されるように、創造性の源でもある。大人である宮崎・富野・押井諸氏、あるいは新海・細田氏らと比べても、圧倒的に幼い庵野氏だからこそ構築できる迷宮のような記号世界となる。具体性・社会性が希薄なまま、夢のような断片がちりばめられ、張り巡らされ、作品となる。

「エヴァ」は、基本的な設定的には「ナディア」の延長上にあるが、そこにキリスト教性が加わって複雑化している。庵野氏は、エヴァを作るにあたって、押井守氏にキリスト教についてレクチャーを受けている。「アニメについて押井さんに聞くほど、落ちぶれてはいない」と発言する庵野氏だが、キリスト教理解においては押井氏に一目置いている。それは逆にいうと、押井氏の前に膝を曲げてでも、キリスト教についてのアニメ作家としての捉え方、その肝を、聞いておく必要がなんとしてもあった、ということ。


『シン・ゴジラ』も、現代社会にゴジラが現れた様をシミュレートした作品となっていて、一見、高い社会性があるように見えるが、あれも構図としては「会議と段取りと立場」をそっくりなぞり、その上で完璧な特撮風世界をCGで作り込んだものとなっている。世界観としては、巨人兵に連なるナウシカ;エヴァ的世界に組み込んでもいる。自分の巨大な迷宮的妄想世界に、ゴジラを組み入れているからこそ「シン」となっている。

●「君を幸せにする」:マリとカヲル

『監督不行届』で庵野氏は書いている。
「嫁さんのマンガは、マンガを読んで現実に還る時に、読者の中にエネルギーが残るようなマンガ・・・現実に対処して他人の中で生きていくためのマンガ・・・『エヴァ』で自分が最後までできなかったことが嫁さんのマンガでは実現されていた・・・ホント、衝撃でした」

これは、何を言っているかというと、エヴァの中でもテーマと言っていい「君を幸せにする」ということに関連している。妻・安野モヨコの漫画ではできている。実生活では自分がそうなっている(そうしてもらえた)。では今度は、どこまで自分が、作品の中でそれができるのかどうか。

○幼児性としての「自己犠牲」

綾波も「シンジ君は私が守るから」と言い、ミサイルを持って使徒に突入し、自爆する。『シン・エヴァンゲリオン』完結編でも、加持やミサトは他者のために自己を犠牲にして突入する。

これらは、自分の存在意義を、妄想の中で正当化する未発達な自我に特有な現象。

主人公シンジに対して「君に幸せになってほしい」と生存と消滅を繰り返す渚カヲル。彼も『Q』ではシンジの目の前で凄惨な死を遂げる。

登場人物すべてに落とし前をつけながら、マリと共に最深部まで降り、自分自身をサルベージする。そのための依代であり、フレームであり、下支えであり、拠り所=マリ=安野モヨコ。

なぜマリが、最後まで残ったのか、それはマリ=安野モヨコ夫人が、彼にとっての唯一の現実であり、現実世界と切り結ぶ紐帯でもあったから。

その構造体の中で、自分にとって、最も「もっともらしく見えるものたち」、現実に生まれ育った駅や、愛した文物(特撮映画、SF、その他)をすべて投入し、それらに守られるようにして、最後まで走り抜いて、彼は映画(エヴァ最終作)を完成させる。

だから最後の空撮は、力が充溢したような、達成感、到達感(物語的カタルシス)というよりは、なんとかここまで来れたという、力が抜けた、虚脱感になっている。やっとここに来られた、という安堵感。現実の、それ以上でも以下でもない、拍子抜けするような”ため息”めいたカットになっている。

当たり前の現実に帰還すること。それが終結地点。しかしそれも、本当ならば、彼の現在の現実は、彼の制作会社である「カラー社」がある街であり、カラー社の建物のはず。そうではなく、もはや自分にとっては過去のものである山口県宇部となっている。

もしくはこうも言える。14歳の中二病の、いつまでの夏の物語であるエヴァが、ようやく28歳のシンジとなり、現実の宇部に戻った。ということで、14歳の自分が28歳にまで成長したということ。

それを自分に、他者に、アニメファンに、社会に示したということが、本作の意味なのだろう。

●回避されている「生の一回性」

上で、「力が充溢したような、達成感、到達感(物語的カタルシス)というよりは、なんとかここまで来れたという、力が抜けた、虚脱感」と書いたが、これは主人公シンジが、レイ、アスカ、カヲルたちだけではなく、彼もまた何度もループしている存在だと設定されていることとも関係している。

カヲルの場合は、それまでの記憶を残してループしているが、シンジの場合は、記憶を消してループしている。記憶を消してループするというのは、人間の生の実相のひとつともいえる輪廻転生のようでもあるが、受け手は、独立した物語を前にした時、それはその中で完結しているということを前提に見ている。その主人公が、何度でも繰り返し生まれていて、いくつもの物語を生きていると成っては、もう物語(作品)のフレームが破綻している。

これをポストモダン的な現実認識として受けとめ、評価するか、あるいはすべては庵野氏が生み出す妄想的な庵野ワールドの一部なのだからと納得するか。

ただ、そういう監督だからこそ、無数の棺桶から出てくるカヲルというようなイメージ、設定を考えつくわけで。あるいは『シン・ゴジラ』のラストが巨神兵と繋がり、他の作品と物語的につながっているというような展開もあるのだろう。


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