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2020年12月18日14:19

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密教の道。

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覚醒をえることと、
空海的な密教(秘密の教え)を理解し、
実践する事とは違うと思う。
 
空海の示した密教は、
個が全体とひとつになること、
を経た個が、

慈悲により歩を進め、
再び個に完全に入り込む理由を
見つける。
 
そして、
その個は、
よく遍在的に生命に
感応せしめ、



そこから、
行われる行(ぎょう)には、


叡智による恩寵と、
能動的な働きかけがあり、
 
それは、禅による
悟りの徹底よりもむしろ

それを越える智性と、
目覚めの働きかけがあるように思え、
 
その行に、中に
含まれる曼荼羅的(まんだらてき)な
叡智の光は、

禅の光をも
発しているのかもしれない


空海は弾指(だんし: 指をパチン)により、
覚醒の座から、
そこではないと働きせしめるように
書いていたと思う。
 
なぜなら、
再び個に戻るという
鎮魂、
 
そして、意図し
遍在的な命に寄り添う
という大志、
 
そこから生まれる
一連の恩寵的な
行(ぎょう)の数々が
あるように思う。



それは、
「自分が
あるがままさ を生きているか
どうか?」
 
という質問を越えて、
 
「生命のために
何ができるか?」



を正直に向き合い
歩を進めた空海の
美しさが有るように思う。
 

それは、
満(まん)を目指すわけではなく、
満から離れた意味を
個に見つけ

さらに満に拡張したところから
技を放つ




それは、
命への「やさしさ」が
なければ、垣間見ることは
出来ないだろうし、
 
理解の門が開くことも
ないだろう
 
しかし、それゆえに
密教の行法を行う事で、
理解できなかったとしても、
 
命への恩寵があるとするなら、
 
それは、
その領域から来てるもの
だからなのだろう。

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