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けれどもその日以降、彼とはそこここで何度も顔を合わせた。今までも同じことだったはずだけど、私が彼を認知していなかっただけなのだろう。顔を合わせれば彼は小さく笑みを浮かべて短く「やぁ!」と言った。私も小さく頷いて返した。
彼がイケメンだったりしたらもっと早くに意識し始めていたのかもしれないけれど、彼は案外たくましそうでスタイルは悪くなかったものの、強く印象に残るような容姿ではなかった。
けれどもその後、自然に、だんだん彼のデータが私の頭にインプットされていくことになる。放課後のグラウンドを何気なく眺めていて、彼がラグビー部と美術部のかけもちなのだということを知った。彼の友人が彼に呼びかけているのを耳にして彼の名前も知った。
そんな場面は今までにいくらでもあっただろうに、その辺で勝手に流れている映像や音声は、特定の意識がなければただの雑物でしかないということだ。
クラス対抗の音楽発表会で驚くほどピアノが上手いことも知った。多才なのだ。
「すごいね、ピアノ」
音楽発表会のあと、彼に声をかけたのが、あの美術室での遭遇以来の会話だった。
「あぁ、幼稚園のころから習ってるんだ」
そのとき、彼がもし、「ガキのころから」などと言っていたら、彼も私の中の男子像、つまり汗臭くてエロくて、無神経で粗雑な生き物の範疇(はんちゅう)に投げ込まれていただろう。てらいなく幼稚園と言った彼を好もしく思った。最初に言葉を交わしたときもそうだったけれど、彼からは、私が多くの男子から感じとるある種の虚勢のようなものが少しも臭ってこなかったのだ。
「スポーツも音楽も美術もかぁ。羨ましいな。私なんて運動ダメだしピアノ弾けないし絵も下手」
それは本音だった。
「でも、可愛いし、小説書いてるんだよね?」
私は思わず息を飲んだ。私だって初めて男子からそんなことを言われたわけではないけれど、全然チャラそうに見えない彼から可愛いと言われたことに、しかも私が文学少女だということをどういうわけか彼が知っていたことに、軽い衝撃を受けたからだ。
それからは廊下で出会うたびに短い会話を交わすようになった。
「描いてる?」
「書いてる?」
そんなふうだ。
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