子供の頃に、何を食べてたか、を思い出そうとしたら、
美味しくなかった小学校の給食くらいしか記憶にない。
家では
母の作った、ごま油入り胡瓜のポン酢付け、
父の作ったパラパラしてない焼き飯、
粉ものの一銭洋食、たこ焼き、など。
普通にご飯と何を食べてたか、あんまり記憶はないが、
まえもって作って置ける料理じゃない
放り込むだけの鍋料理が多くて、
夏でも鳥の水炊きとか食べてて。
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話が変わるが、
うちの子が昨日言うには、
保育園の庭に居たアリを潰したら、その指がピリピリする、と。
で変な匂いがしたので、友達に嗅がせたら
「あ!こりゃあ生姜の匂いじゃ」と言われたと。
(多分違うけど)
で、その後、蟻酸(ぎさん)という言葉を知ったとか。
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私が小学校4年生の時、同級生の女の子たちが
お菓子を学校に(違反だけど)もってきて、食べてた頃があって、
だれかにもらった、かっぱえびせんが、その女の子のポケットに、一緒に入れてたんだろう、チリ紙がこびり付いてたのを憶えてる。
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うちの父は、自家製の豆腐や味噌を作ったり、
当時は違反だったどぶろくをつくったりしてた。
父は台所の自分の座る後ろの木の壁を改造して、今も売ってる小さな瓶のスパイスをずらっと並べてたりしたが、そのスパイスはそんなに使ってなかった記憶。
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駄菓子屋で食べた物で美味しい物はあまりないが、
もろぶた、という、和菓子屋で饅頭を並べたり
それに入れて配達する木で出来た大きな容器に
水羊羹がいれてあって、包丁で小さく切っていて一口ずつの大きさで
取って食べられるように
爪楊枝くらいの細い棒が刺さっているのだが、
その棒の先が黒い印がついていると当たり、で
もう一本食べられる、ってくじがあったのを思い出す。
夏だけだったかもしれんが。
ハマグリを容器にした、ニッケの塊みたいなのは
あれはなんやったんだろ、とか検索してみると
ニッキ飴と出てきた。
柔らかったと記憶してるが一度しか食べたことが無い。
噛んでるとすぐに味が無くなり硬くなるガムとか
グリコのぱっち物のゼリコキャラメルとかは
ゲームの当たりで出てきたり、で。
まあ、ろくなもんじゃなかった駄菓子だったろうと思うが、
近所には無かったのでそんなに足しげく通っては無かった。
大人になって経済系の雑誌か新聞かで、知った話では
岡山の菓子メーカーにカバヤが出てきた、これはバックが林原で
林原は、水飴を一手に生産している会社で
水飴は原料として菓子は無くてはならぬものだけど、
その原料メーカーが
大量生産の菓子を作って小売りするとなると、
他の大手メーカーは値段で太刀打ちできないだろうとのことで、大きなライバル会社ができることに困ったそうで、それも映画「巨人と玩具」で描かれてるような
昭和のTVコマーシャル合戦や、豪華景品懸賞、おまけ合戦もすごく、
カバヤは、駄菓子屋の一軒一軒に、店番のオバちゃんのための椅子を配った
という話があったとか無かったとかで。
それが急にカバヤが落ち込むきっかけは、工場内の事故の噂が世に出たこと
なのだが、これは昔の人は記憶してるかもしれないけど
ホントの事かどうかはわからないので、ここでは書けない。
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スーパーでグレープフルーツが売り出された頃、
粉糖がついていて、それかけて食べる、ってことしてた。
今の甘くないヨーグルトもそうだった、フタをはがすと粉糖が付いてて。
キウイも新しく売り出されたり。
カリフラワーは家で何かにつけ食べてた記憶。
そのうちブロッコリーが出てきたが
ブロッコリーが普及するのは、かなり後だった。
近所にどでかいスーパーダイエーが出来て、
ドムドムバーガーが来て、
初めて食べたのは海老バーガーで、美味しかった。
その近所の線路渡ったところに
洋菓子のタカラブネが出来て、アイスシュー食べたり
隣りが小僧寿しで、海老マヨネーズの細巻寿司を食べて
美味しかった記憶がある。
タカラブネもダイエーも小僧寿しも廃れてしまったが、
懐かしい味の記憶は残っていて。
1970年から90年までの加工食の新製品出現ラッシュはすごかった記憶で、
飴だと小梅ちゃん、チェルシー、サクマのイチゴミルク
♪チャオチャオっと舐めちゃお、
ガムでクイッククエンチ、
カップヌードルの後に出てきたカップご飯や
ハウスグラノラBARとかアルキメンデスとか失敗して世間から消えた食品の記憶もある。
私はその後、京都に出て、京料理の味を知ることになる。
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