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2020年11月04日09:24

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進化の邂逅〈かいこう〉

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『イエソド的な生徒は
教えのイメージやカリスマ的な
人格を探し求める。

--略--

しばしばこの生徒達は
サイキックで、
多くの人はそれを
精神性と勘違いするのである。

往々にして、彼らは
グループのリーダーシップを
取ろうとする。

--略--

規律を持って訓練すれば
高次からの影響に対して
需要的になり、

すべての人に分かるわけではない
高次の世界の感覚も受け取るようになる。

しかしこの才能もチェック
されなければならない。

モーセの姉妹のミリアムのように
自らが当然、
預言者であると
考えるようになる。

--魂〈カバラ〉の学校
著:ゼブ・ベン・シモン・ハレヴィ』
 
 
老子は、
(道に迎えられた者は?)
「その光を和らげ」
と書いている。
 
 
能力に準ずる者は、
他人を取り込んでしまい
〈その人自身〉が
〈その人自身〉から
離れてしまう
事もあるかもしれない。
 
 
その危険性を回避させるだけの
責任を担えなければ、
おそらく自己満足の垂れ流しの中
自分の〈信者に近い〉人たちを
作り出してしまい

その力に酔い
 
 
なかなか
進めないかもしれない。
 
 
これは、知識を集めた
禅の中でも起こりうると思う。
 
 
意図や、段階が
吟味されていないので
 
表面的には、早そうだし
達しそうだが、
そうなのだろうか?

吟味が必要なように
思われる。
 
 
自らの能力や光で
他者を圧倒する時に
(もしかすると能力の奴隷
といえるのかもしれない)
 
相手の光まで眩ませて
しまうのなら

果たしてそれが
叡智と呼べるのだろうか?



能力を持つ者は、
能力を持つ者として

自分を〈限定〉するが
 
 
果たして、
その〈能力を持つ自分〉は、
それがすべてだろうか?
 
 
〈名無し〉が仮に、
能力を得たのなら

その基板に
名無しがあり
 
 
名は、何を握ったんだろうか?
 
名が持つもの

そして、
持つ前にあったもの
 
 
進化の邂逅は、
時として、
能力の中に閉じ込められてしまうが
 
そこから出る
手はずがあるのだろうか。


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