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2020年10月12日05:53

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石原莞爾と連合国軍との闘い

石原莞爾を語る時、極東軍事裁判酒田法廷の連合軍に対しての行動は感激するものがあります。一方的な連合国の歴史観の誤りを指摘し、国際情勢の問題点を提起し、連合軍の民主主義に反することを相手に伝えました。占領軍を恐れる日本人が多い中、石原莞爾は違っていた。石原莞爾は極東軍事裁判酒田法廷の前に連合軍の検事と既に会っていたのです。

戦後初の内閣である東久邇宮に内閣顧問を委嘱された石原莞爾は、難病と東亜連盟運動に専念する理由からこれを拝辞しましたが、東久邇宮に、国民総懺悔など石原莞爾の考えを伝えた後、東京の逓信病院に入院したのです。

石原莞爾は、病院で連合国側の検事の尋問を受けましたが、横柄な態度で日本人を敗戦国として見下していた事に対し、石原莞爾は怒り、検事はビックリして謝って帰ったといいます。翌日、一筋縄ではいかないと考えたのか別の検事が尋問しにきました。検事の質問は「戦犯の中で誰が第一級犯罪人」と訊ねたのです。

すると、石原莞爾は「トルーマン」と答え、大統領就任の時ばらまいたビラを見せ、そのビラには「日本国民が軍人とともに戦争に協力するならば老人、子供、婦女子を全部爆殺する」と書いてある点を示して、畳み掛けるようにこう言い放った「これは何だ!!国際法では非戦闘員は爆撃するなと規定があるにもかかわらず、これは何か!!」と。

検事は「あれは脅しだ」と答えると「そうではない、このビラの通りに、実行し、B29が民衆すべてに爆撃し、広島や長崎は一体どうしたことか?トルーマンは、このビラの通り実行したトルーマン大統領の行為は戦犯第一級のそのまた第一級に価するものである」と言ったのです。

次の検事の言葉では「日本の戦争責任を日清、日露戦争までさかのぼって調べる」と言うと、石原莞爾は次のように言う「それではペリーを呼んで来い、日本は当時徳川鎖国時代で、どこの国とも付き合いたくないと言って、堅く外交通商の門戸を閉ざしていた。それを米国からペリーが黒船でやってきて、門戸開放、通商交易を迫った」。

「もし実行しなければ、大砲をぶっ放すと脅迫した。徳川政権は、結局米国の脅迫外交に屈して開国を決定し、列国と外交通商関係を結んだ。外国と付き合ってみると例外なく侵略主義の恐ろしい国だということを知らされた」。

「それから貴国らを大先生として、日本は泥棒のような侵略主義を習い覚えたのだ。いわば貴国らの弟子である。もし日清、日露戦争が悪いというならばペリーを証人としてあの世から連れてくるのだな」と帝国主義の歴史をユーモアなど交えながら語り、米国への批判を行なったのです。短い言葉で、よく本質をとらえています。

昭和22年酒田市において石原莞爾の訊問が行われる事となりました。なぜ極東軍事裁判が、酒田市において行なわれたかというと、石原莞爾を東京で訊問すれば、東京裁判と連合軍側の権威の失墜を招くことを恐れがあったと思うのです。酒田法廷に出廷する石原莞爾をリヤカーで駅まで曳いた3人の内の1人である私の父親・仲條立一は、当時の状況をこう語っているのです。

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