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2020年10月08日06:15

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先ず生きろ

論文「われらの世界観」は、石原莞爾が極東軍裁判前に各国の検事たちから入院先の病院で尋問を受けた後の7月8日に病院で書き始め、昭和22年1月の大手術前に若い同志たちに、西山農場の自宅で講義したものです。石原は膀胱癌の大手術前で、死期を感じていた。にもかかわらず、寒い雪の夜7時から9時まで、石原は丹前を羽織った姿で講義した。

当時、酒田の旧制中学校を卒業して間もない仲條立一は、のちに酒田法廷に出かける石原莞爾が乗ったリヤカーを引き、月見川を渡った1人です。石原莞爾の講義を受けたときには18歳だった。仲條立一はその夜のことを、「石原莞爾平和思想研究会」の会報誌にこう書いています。

「私と今は亡き小松健作君と共に、『われらの世界観』について石原先生に御講義を受けたのは昭和22年1月初旬頃で、2日にわたっての夜だった。1晩目は私がメモを取るのに精いっぱいの語り口で、しかも要点を分かりやすく明確に教示された。時間は夜7時から9時過ぎくらいだったと思う。何せ先生と直接対面してお教えを受けるという過分な幸せと緊張で第1日目は無我夢中のうちに過ぎたといえる」。

「次の日は外寒厳しかったことを覚えているが、しかし先生は時間通り講義をお始めになり、30分くらい話されましたら『一寸待ってください』と仰せられたので、先生のお顔を拝見したところ、キット歯を食いしばり顔面に汗を時に痛みを堪えられているご様子でした。奥様が『今日は冷えますし、ワクチン注射をされたのですから』と心配そうに背中をすすっておられました」。

「暫くの間じっと耐えられた先生が『ああ、やっと出たよ』といわれては羽織られていた丹前の間から瓶を出し振って見せられました。そこには細長い形をした血の塊が浮いており、その割竿程度の太さの血塊が狭い尿道を無理遺り出ると思うと、如何ばかりのお苦しみかと絶句しました」。

「私等は先生の病の苦しみを目のあたりにして、とてもお言葉に甘えてお話を伺うわけにはいかないと、2晩目はそれでも続けようとなされる先生を、奥様とともにお止めした悲痛な夜の思い出があると同時に、『マッカーサーが帰国後は、国民党は東亜連盟党として堂々政治に乗り出す。』」

「また『原爆の出現こそ、戦争が戦争を否定する時代に突入したことを示唆する。世界に先駆けての戦争放棄の憲法を誇りとして、新文化を想像するのが、天から与えられた使命である。』と強調されたお言葉が今でも忘れられずに心に響いてくる」。

この論文は、第1章「敗戦によって強制させられるもの」、第2章「新日本の進むべき道」、第3章「建設方針」、第4章「わが党の主張」、第5章「運動方針」で構成されています。この中で石原莞爾は、「日本は生存の道を絶たれんとする。四辺を見渡せば8千万の同胞は荒廃した4つの小島に引き締めあっている」。

「耕地面積に対する人口密度は世界一であるのに、天然資源は貧弱。台湾、朝鮮は元の枝に帰っていった。南樺太はあっさりソ連の領土に編入され、千島列島も濃霧の彼方に見えなくなった。かつてこの近海は日本人の生活に欠くことのできない大漁業でもあった。食糧不足、失業者の激増、インフレの深刻化は急速調である。しかし我等は何をさておいても先ず生きなければならぬ」。

ここで国民皆農、都市解体、農工一体、簡素生活を建設目標に立て、「一刻も早く都市なき新国土を建設することが、あらゆる建設の根元である」と、都市生活を捨てて農耕に従事すべしと述べる。早瀬利之先生よりこの文面を石原莞爾平和思想研究会同志へ伝えるようにと指示がありました。

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