このHさんには大きな影響を受けました。自分の一生を振り返ってみますと、親子や家内を除くと、影響力という観点では、十年続いた元カノを上回る影響力でした。
我々の中心にいて、二十年先を見通していた人です。
仕事の関係もあり、中国通です。
私がとうとう、翻訳まですることになった『洩天機』の周辺の中国隠避思想に招待してくださいました。
たった一つだけ、彼から学ばなかったのは、質実剛健なライフスタイルです。
大根菜の素晴らしい味わいは、気づかないわけではありませんが、食生活の中心にできません。ぼくは贅沢ですが、贅沢というのは、お金では説明できません。感性の問題です。今も旧知の貿易会社創業者社長に連絡し、アメリカからかっこいい靴を買ってきてほしいと依頼したところです。
たとえば、大トロのような誰もが好きになる素材、スポーツカーのようなメジャーな楽しみに波長が合う感性なのかそうでないのか。
節約などの理由を考えるのではなく、大根が好きな人、感性が大根をキャッチする人とそうでない人の二つが存在するとシンプルに考えるべきだと思います。
さらに、何かを求めたあと、どのような思いを抱くか…という問題もあります。
金や異性を追求した後、人生のむなしさを感じる人もいるでしょう。
また、人生のむなしさを感じている自分、たとえばラブホテルのベッドの上でたばこをふかしている自分に、トレンディドラマの主人公になったかのような、自己満足的なダンディズムを覚える人もいるでしょう。
しかし、むなしさがわかっていたら、快楽を追求する必要がないのに…とは思いませんか? この理屈はおかしいですね。
その通り。快楽の追求は、食欲のように、ただ存在し、それにインチキな理由がくっついているだけです。
何か理由があるから、あるものを求めるという、
原因理由 → 現象
のモデルが行動をうまく説明できないどころか、全く説明できません。
上の例でいうと、快楽をむさぼっている姿が、自分。
それに対する理由付けをしている姿は、自分の到達した真理のように見えて、実は、逃避です。宗教はもとより、政治思想などあらゆるものが、逃避。自分を異化する、つまり自分を自分でない者にする魔術的な仕掛けであり、口実です。
Hさんの愛読書は、『菜根譚』です。
高ぶった感情をはじめとする、諸々の思いは本当の自分ではない。
遅まきながら、この本の本当の価値がわかってきました。
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