カールはドイツ陸軍が開発した60cm若しくは54cmという超大口径臼砲搭載の巨大自走砲です。“カール”の名称は、開発を推進した国防軍最高司令部陸軍兵器局長カール=ハインリヒ=エミール=ベッカー陸軍砲兵大将に由来します。
1936年3月、ヒトラー総統がロカルノ条約を破棄してラインラント進駐を強行し、独仏関係が険悪化した当時、フランス共和国政府は独仏国境に大要塞線であるマジノ線を完成つつあり、ドイツ国防軍にとってはマジノ線突破が大きなテーマとなりました。
そのため、同月、国防省陸軍兵器局研究部長ベッカー陸軍中将はラインメタル社にマジノ線破壊計画の考案を要請、同社は分割して複数の車両で輸送した巨大榴弾砲を陣地で組み立てる事を想定して検討が重ねられました。しかし、この方式では射撃準備に非常に時間がかかるため、ラインメタル社は1937年1月になって、60cm臼砲を自走化する計画に変更、同年6月頃に兵器局から公式に開発依頼が行われました。
ベッカー砲兵大将が陸軍兵器局長となった1938年から翌年にかけて多砲塔戦車NbFz(ノイバウファールツォイク)とスケールモデルを用いた広範に亘る走行試験が行われ、巨大車両の極めて高い接地圧と操縦性に関する研究がなされました。砲の発射試験は1939年6月に行われました。実際にフランス戦が開始された1940年5月には実寸大車両の走行試験がウンターリュッセで行われています。これらの結果を元に、懸架装置を始めとして設計の一部を変更した生産型が1940年11月から1941年8月にかけて6輛製造され、国防軍に引き渡されたのです。制式名称は“Karl-Gerät 040”とされましたが、名前の由来となったベッカー砲兵大将は、弾薬供給不足の責任を問われて1940年4月8日に自決していました。
試作車を含む7輛にはそれぞれ固有の名前が命けられており、当初は旧約聖書から、後には北欧神話から引用されています。
*I号車――“アダム(Adam)” 。後に“バルドル(Baldur)”と改名。8転輪型初期型走行装置。
*II号車――“エーファ(Eva)”。後に“ヴォータン(Wotan)”と改名。8転輪型初期型走行装置。
*III号車――“オーディン(Odin)”。11転輪型後期型走行装置。
*IV号車――“トール(Thor)”。11転輪型後期型走行装置。
*V号車――“ロキ(Loki)”。11転輪型後期型走行装置。
*VI号車――“ツィウ(Ziu)”。11転輪型後期型走行装置。
*VII号車――“フェンリル(Fenrir)”。試作車。11転輪型後期型走行装置。当初は固有名が無く、試作時の非公式名称は“レクス(Rex;王)”と命名されていました。
カールは全長11.15m・全幅3.16m・全高4.38mで、 重量は124tにも達し、指揮官1人・射手18人・運転手1人・副運転手1人の21人で運用されました。
エンジンはダイムラーベンツ社の580馬力MB503A V型12気筒液冷ガソリンエンジン、懸架装置はトーションバー式のアルデルト5段階(前進4速/後進1速)機械式変速機が用いられましたが、速度は僅か6km/hしかなく、行動距離は42kmで、移動には膨大な量のガソリンが必要でした。
即ち、カールは自走砲と称するものの、長距離の自走は現実的には不可能であり、長距離移動の際には鉄道が利用されました。この時に用いられたのは5軸ボギー台車を使った特殊な大物車で、車台全体を固定台座を持つ二本の巨大な回転式アームで吊るして輸送しました。目的地に到着すると車体は台座から外され、射撃する場所まで自走しました。
カールは100トンを超える車重がありながら、通常の地質ならば問題なく走行出来ましたが、柔らかい土の上で旋回すると地面にめり込んでしまう恐れがあるため絶対に避けねばなりませんでした。また、陣地転換の際の迅速な移動や、射撃精度確保のめに射撃陣地は正確な水平に整地されている必要があり、カールが走行する道路は溝や軟弱な部分を埋め固める必要があるなど、運用上の制約が非常に多い厄介な兵器でした。
操縦席は砲尾側、機関室区画の左側にあり、本車にとっての「前進方向」は砲尾側となります。操縦席は露天式で、鉄道輸送時などの使用しない場合には取り外し式の蓋で塞がれていました。サスペンションは可変式で、陣地に到着し射撃位置に付くと、射撃時の反動を緩和する為に車台が接地するよう車高を下げる事が可能でした。砲架の前方にある区画(進行方向の後部)内部にはサスペンションの操作装置があり、操縦助手が操作しました。操作室の天面には1基のハッチがあり、このハッチから内部に入る事が出来ました。砲身方向に進行する(操縦機構からは後進状態)際は、操縦席からは巨大な砲と砲架があるために後方、特に後方右側方向の視界がほとんど取れないため、操縦助手が進行方向の視界を補佐しました。
カールの60cm砲は8.45口径の短砲身で、砲尾は右側開きの水平鎖線式だったので、発射後には装填のため砲を水平に戻す必要があり、照準もやり直さねばならなかったため、10分に1発しか発射出来ませんでした。油気圧式緩衝装置で反動を吸収する方式が取られ、仰角は最大70°あるものの、旋回角は左右4°しかありませんでした。つまり、カールの自走能力は旋回角の少なさを補う事に使われるのが基本だったのです。また、鈍重なカールが敵に肉薄しての直接照準水平射撃を行う事はあり得なかったため、実際の射撃は常に仰角55°以上で行われていました。
60cm砲弾は薬莢使用分離装薬式で、重ペトン弾(schwere Betongranate)と軽ペトン弾(leichte Betongranate)の二種類があり、前者は重量2170kg・爆薬重量289kg・初速220m/sec・最大射程4320m・コンクリート貫通力2.5m、後者は重量1700kg・爆薬重量220kg・初速283m/sec・最大射程6640m・コンクリート貫通力2.5mでした。
カールの支援車として、巨大な砲弾を輸送・装填する専用車両'Munitionsträger' も併せて開発され、22輛が生産されて配備されています。これは通常のIV号戦車D/E/F型の車台を利用して、砲塔の代わりに四発の砲弾を運搬出来る装備と専用のクレーンを設置した物で、カール1輛に付き2輛の'Munitionsträger'と1輛の予備車両が割り当てられました。
カールの運用には多大な人員と物資を必要とする上、本車を投入する局面は非常に限定されざるを得ませんでした。即ち、歩兵用迫撃砲レヴェルしか無い短射程、低い発射速度、迅速な移動が行えない等の問題から、不用意に最前線へ投入すれば敵方から一方的に撃ち返される危険が高く、特に航空攻撃には全く無力であり、その巨大さ故に対空偽装をする事も不可能でした。つまり、自軍が完全な制空権を掌握し、地上でも圧倒的優勢を保っている状況以外では使えない代物なのは明らかだったのです。
さて、マジノ要塞線正面突破を目的に開発されたカールでしたが、フランス戦には間に合わず、マジノ線突破作戦も行われなかったため、本来の目的を果たす事は出来ませんでした。カールは全車がベルリンの南西にあるマルクブランデンブルク大管区ユーターボーグ(Jüterbog)に駐屯する第833重砲兵大隊によって運用される事となりました。
なお、カールの巨大な砲弾の威力は絶大なものの、射程が短か過ぎる事は実戦投入前から問題視されており、ソ連侵攻を目指すバルバロッサ作戦が本格検討されていた1941年2月には射程を延ばすための研究が始まりました。
1941年6月、対ソ戦が開始されると、カールは初めて実戦投入され、独ソ国境のブレストリトフスク要塞やウクライナ西部のリヴィウ攻撃のために投入されました。当時、ソ連陸軍は壊滅・敗走状態にあり、制空権もルフトヴァッフェが完全に掌握していたため、安心してカールを投入出来たのです。
そして、この実戦経験に基づいて、60cm砲よりも威力が劣るものの射程を伸ばした54cm砲身を開発する事が決定され、1942年5月に生産型6輛に搭載するための発注が行われました。
1942年6月、第11軍司令官フリッツ=エーリッヒ=フォン=マンシュタイン上級大将hはクリミア半島のセヴァストポリ要塞攻略戦にカールを投入しました。ルフトヴァッフェが完全な制空権を掌握し、ソ連陸軍が要塞内に逼塞している状況はカールの腕の見せ所であり、要塞防衛ライン突破に絶大な威力を発揮しました。
その後、1942年8月11日付で第833重砲兵大隊からカール2輌を基幹とした第628重砲兵中隊が新編され、レニングラード包囲戦へ投入されています。
1943年3月、ヒトラー総統臨席の会議で、最初の54cm砲が納入されるのは1943年6月、三門目は8月中旬になる事が明らかになりました。
54cm砲タイプのカールの制式名称は“Karl-Gerät 041”とされ、三門の54cmが完成して、I・IV・V号車がこれを搭載しました。他の3輌も換装は可能であり、第二次生産と換装も計画されていました。
“Karl-Gerät 041”は、重量126350kg・全長11.37m・全幅3.16m・全高4.38mで、590馬力のダイムラーベンツ MB507C V型12気筒液冷ディーゼルエンジンを装備し、前進3速/後進1速のフォイト四段階油圧式変速機を用いて、10km/hの速度を出す事が可能であり、走行距離も60kmとなったので、“Karl-Gerät 040”よりも多少自走性能が向上しています。
11.5口径54cm砲は、軽ベトン弾(leichte Betongranate)の場合、重量1250kg・初速378m/sec・最大射程10060m・コンクリート貫通力3.0〜3.5mと、やはり“Karl-Gerät 040”よりも使い勝手が良くなっています。高性能爆薬弾(Sprenggranate)も開発されましたが要目は不明です。
“Karl-Gerät 041”が登場した頃には戦局はかなり悪化しており、東部戦線でも完全な制空権確保が困難な状況が生じていたため、カールが前線に送られても戦闘に投入されぬままに撤収する例が多いのが実情となっていました。
1943年5月15日、第628重砲兵中隊は拡大改編されて第628重砲兵大隊となりましたが、同大隊は同年8月には第626重砲兵大隊と改称されて21cm臼砲も装備する部隊として改編され、1944年6月にはカールの運用部隊として第628重砲兵大隊内に「司令部付特殊機材中隊」が新設されました。
1944年8月1日、ポーレン(ポーランド)総督府でワルシャワ蜂起が勃発すると、第628重砲兵大隊司令部付特殊機材中隊は第638重砲兵中隊として再編されて蜂起鎮圧に投入されました。ソ連軍が蜂起部隊を見殺しにする戦略を採用したため、カールは悠々と蜂起軍撃滅やワルシャワ市街破壊のために砲撃を実施、蜂起鎮圧に大きな役割を果たしたのです。
一方、同年8月11日にヒトラー総統が発令した「パリ徹底破壊指令」に基づいて、カール装備の第428重砲兵中隊が新編され、カールを初めて西部戦線へ投入する準備が行われましたが、ワルシャワでの戦闘が10月まで長引いた上、ドイツ軍パリ防衛司令官デートリヒ=フォン=コルティッツ歩兵大将が8月25日に連合軍へ降伏してしまったため、パリ方面への移動は行われないままに終わりました。連合軍が完全に制空権を掌握している西部戦線へのカールの移動は、どのみち無理だったと思われますが…。
その後、第638重砲兵中隊は、第428改め第438重砲兵中隊と共にはソビエト軍のハンガリー王国侵攻に対処するためにブダペストに移動しましたが戦闘には投入されず、ラインの守り作戦(アルデンヌ大反攻)に備えてドイツ本国へ帰還、再編成の後1944年12月下旬から始めて西部戦線に投入されました。冬季は悪天候が続くため、連合軍の航空攻撃に晒される心配は少なかったのです。しかし結局、殆ど実戦の機会が無いまま、1945年2月には部隊はドイツに帰還しています。
1945年初頭には3個目のカール自走臼砲中隊を新編してソ連軍包囲下のブダペスト救援に赴く作戦が計画されましたが、2月13日にブダペストが陥落したため実現しませんでした。続いて第638重砲兵中隊をブダペスト奪回と油田地帯確保を目指す春の目覚め作戦へ投入する事が計画されましたが、早春のハンガリーの大地は泥濘状態になるため、ポーランドへの派遣に変更され、3月7日に第638重砲兵中隊はヴァイクセル川方面の防衛に派遣されました。
ところが、同日、西部戦線に於いてアメリカ軍がライン川に架かるルーデンドルフ橋(レマーゲン鉄橋)を奪取したため、第638重砲兵中隊はレマーゲン鉄橋破壊のため3月11日に急遽西部戦線へ移動、鉄橋への砲撃を実施しました。車輌故障により14発を発射したのみで、鉄橋への命中を果す事は出来ませんでしたが、至近弾であってもその54cm砲弾は「橋が持ち上がった」と見える程の衝撃を齎し、3月17日にレマーゲン鉄橋が崩落する遠因となったのです。
1945年3月22日の時点で、ドイツ軍の公式記録では「カールは2輌が西部戦線にあり、2輌がユーターボーグで待機状態、この他3両がエンジンもしくは砲の損傷によりユーターボーグで修理準備、もしくは保管状態にある」とされています。第638重砲兵中隊はマグデブルグアンハルト大管区のヒラースレーベン(Hillersleben)近郊にて、輸送中に連合軍の爆撃を受け、V号車“ロキ”が線路上で鉄道輸送状態のまま大破し回収不能となり、アメリカ軍が迫ったためにV号車を含む装備機材を全て放棄してユーターボーグに撤収、4月11日に第438重砲兵中隊に合併する形で解隊しました。この結果、アメリカ軍はヒラースレーベンにてII号車“ヴォータン”と大破状態のV号車“ロキ”を鹵獲しています。
第438重砲兵中隊はユーターボーグにおいて行動不能な状態のカール自走臼砲全てを爆破処分し、ユーターボーグ東方でソビエト軍に対して最後の戦闘を行った後、車輌を放棄して解散、将兵はソビエト軍の捕虜になることを避けるために西方に避退しました。
一方、I号車“バルドル”とIV号車“オーディン”は4月20日にユーターボーグ近郊でソビエト軍に鹵獲され、ユーターボーグで爆破処分された残りの3輌もVII号車“フェンリル”がアメリカ軍に、III号車“トール”とVI号車“ツィウ”がソビエト軍に捕獲・接収されています。
アメリカ軍は鹵獲したカールを本国に輸送し、アバディーン性能試験場で各種試験を実施しましたが、その後については史料が残っていません。しかし、アバディーン試験場附属のアメリカ陸軍兵器博物館にカールは現存しておらず、試験場の敷地内でも発見されていない事から、試験後にスクラップとして処分されたと推定されています。
ソビエト軍に鹵獲された車両群はモスクワ近郊のクビンカにある装甲車両中央研究所(НИИ БТ)に移送され、各種試験の後、研究所の附属展示施設で保管・展示されていました。グラスノスチにより同施設が公開された際、唯一完全な状態で展示されていた車輌はソビエト軍による記録からVI号車“ツィウ”と確認されましたが、後にレストアが行われた際に、クビンカ移送後に塗装された塗料を剥がしたところ、“アダム”の車輌名が書かれたオリジナルの塗装が発見され、更に各部にI号車の名が刻まれた銘板が確認されたのです。これにより、「これまでVI号車“ツィウ”とされたものはI号車“アダム(バルドル)”の誤りであった」とされましたが、これについては異説があり、「記録上の誤り」説、「ドイツ軍により共食い整備が行われた」説、「損傷した車両群をソビエト軍が接収した後に組み合わせて完全な1輌として復元した」説などが乱立しています。各説ともに確定的な史料は発見されていないものの、この車輌は現在では“Adam”の車輌名が描かれてクビンカ戦車博物館にて展示されています。
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