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2020年06月02日09:14

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連続ブログ小説 淋しい生き物たち−少女の欲しかった日 第46話

 さらに教えられたルートを先に行くと、上りの細い道は舗装されていたし、電動自転車なら大した苦行ではなかったが、両脇に密生する竹の枝が道にしなだれかかっているので、頭を左右に振ってよけながらのサイクリングになった。
「これは確かにヘルメットが必要だね」
「うん、でもゴーグルの方がよくない?」
 やがてまた三差路にぶつかり、そこには立て札が立っていて、「東温泉600メートル」と方向を指示していた。急な下りをどんどん降りていくといきなり景観が拡がり、海岸に出た。この辺りだろうか。岩場を縫うように敷かれた、幅が1メートルもない通路のアップダウンを強引に進み、もうこれ以上は無理だというところで自転車を停め、歩き始めた。
 石で囲まれた、湯温の違う3つの美しい露天浴槽が並んでいるとネット情報にはあった。そそるような画像も見ていたが、最初に目に付いた浴槽らしきものはほとんど涸れて干上がっていた。
「大抵こんなもんだよね。画像で見るほど素晴らしくはないんだ」
 彼が少しがっかりして言うと、ハリがもう少し先を指さして叫んだ。
「違う、あそこだよ! あれ、写真で見たまま!」
 彼が目を遣ると、海にそそり立つ奇岩を借景にし、岩礁の間に大中小3つのエメラルドグリーンの輪が見えている。
「わぁ! 昔ファンだった映画スターに出会った気分だよ」
 近づいていくと石積みで作られた簡易脱衣場もあり、湯船のすぐ前が海、波しぶきがかかりそうだ。天ヶ瀬温泉の川湯もよかったが、彼は川より海に軍配を上げる。岩の間から湯煙を上げながら、温泉が海に滴り落ちている。
「これはいいわ」
            フォト      
「きれいだねぇ。ここなら私も入りたかった。メンタル面で大勢に影響があるよ。
 でも裸になる勇気はないな。誰か来たらあの上の道からずーっと丸見えだよ。お父さんだけどうぞ」
 ハリがはしゃいでいる。
「申し訳ないが失礼するよ。あんまり父親の裸を見るもんじゃないぞ」
「はい。慎みます」
 彼は脱衣場−あくまで目隠し程度だが−に入って服を脱ぎ、腰にタオルを巻いて、ハリの目を少し気にしながら湯船に向かう。ハリはもう少し先の岩場で海を見つめていた。
 彼はまず左端の「中」に入ってみる。
「はあああーーーっ」
 思わず感嘆の声を挙げる。
「何、お父さん、気持ちいいの? 悪いはずないよね」
「サイコーだよー」
「ねぇ、そっちに行ってもいい?」
「あ、ごめん、もうちょっと待ってくれる。湯めぐりするから」
「わかった。楽しんでぇ」
 彼は右へ移動していく。左の湯はぬる目だったが真ん中の湯は中くらい、右端は別府温泉並みに熱く、足しか浸けられなかった。よく見ると右から左へ、3つの湯船は少しずつ低くなっているのがわかる。右端に源泉が流れ込んでいて、そこから順に左へ、細い水路を通った湯が流れ落ちているのだ。そうすることによって湯温を調節している。
 案内所の男性スタッフが「東の湯に行けば先人の知恵が見られます」と言っていたが、単純でありながらこの見事な湯温の調整は、正に先人の知恵であり、長い模索・探求の結晶なのだろうと彼は思った。

【作中に登場する人物、地名、団体等にモデルはありますが、実在のものとは一切無関係です。】
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