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2020年03月02日19:53

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本郷城跡(神明神社)・須賀城跡(横手東公園)

本郷城跡(神明神社)https://goo.gl/maps/LockmKBgHJCS9e3c7
 本郷城は、神明神社の西に広がる水田2ヘクタール程であり、明治14年以前には城の内と呼ばれていた。城の内とは、慶長6年(1601)より元和9年(1622)まで稲葉内匠正成(妻は将軍徳川家光の乳母となる春日局)が、葉栗郡内と中島郡内を合わせてほぼ一万石を領して居城を構えた本郷城の址であり、この神明神社も城の鎮守神との伝承がある。
 
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 本郷地内には鉄砲町・町裏・町田紅屋・鐘鋳などの小字名が残り、城下町の名
残りが感じられますが、残念ながら石碑のみで城の遺構は残っていません冷や汗

神明神社拝殿
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この辺りは岐阜から伊勢へと天照大御神が遷る際、船待ちで御旅所になったと云われており、神明神社が多いですわーい(嬉しい顔)
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境内社
 御祭神は不明あせあせ(飛び散る汗)
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須賀城跡(横手東公園)・開発山https://goo.gl/maps/ciwRAKGLCVaXFrVb7
 桑原川と長良川にとの間にあったとされる。羽島市役所が発行した「羽島市史」によると須賀城は1147年藤原氏の子孫・加藤行藤が安八に、その子加藤行信が250石の領主となった際に築城したとされる。子孫は土岐氏に仕え美濃国守護・土岐成頼から戦功により羽栗郡・安八郡で千貫加増されたという記録が須賀ある。
 土着したのか加藤から須賀となり須賀三郎秀正の孫「加藤正由」が加藤清正公の父と云われている。
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須賀は長良川の東堤に囲まれたようにある深い砂地と土地でした。川水によって運ばれた砂できた砂地や砂丘の事を砂所(すか)と言い、そこから名付けられたものと思われます。この辺りの小字は定城と言い、須賀城があったと伝わる。
 公園中央部にある砂を集めた山は開発山と言い、かって須賀城の天守閣があったとのことです。

開発山
 昔はこの様な山が20個ほどあったとされ、洪水の度に流れ込んできた砂を削り、新田開発していた砂を集めたものです。
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脆い砂山にわざわざ天守閣を築いたのだろうか?ここに天守があったとは思えないので、希望的観測でしょう冷や汗
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開発山の頂上
 かってはもっと大きかったとは凄いexclamation ×2水害との戦いが感じられる場所でしたほっとした顔
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