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2020年02月25日19:15

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秩父往還 吾野通り 名栗通り 伊豆ヶ岳西尾根

2020年2月9日(日)

秩父往還 旧 正丸峠越え・名栗往還の古道・伊豆ヶ岳西尾根VR(写真55枚)
https://yamap.com/activities/5593247

1、秩父往還 吾野通り 旧正丸峠へ

どこの山を歩こうか迷いに迷って決められないまま朝を迎え、奥武蔵に足が向く。
飯能駅の構内売店で食料を仕入れて改札の向こうを見ると、何人かのハイカーの姿があった。それを見て飯能からのバス利用をやめて西武秩父線に乗り継ぐ。
次に考えたのは西吾野 辺りの山だが、騒々しいトレラン族の一団が西吾野駅で降りると知って断念した。
まったくの気分任せで、結局降りたのは正丸駅だった。

まずは旧 正丸峠まで、と歩き出す。
駅駐車場から国道沿いに出ると道路の反対側に木造の祠があって以前から気になっていたので確かめに行った。
二体の石仏があり、右は「童子」の文字が読み取れる小さな優しい表情の石仏、左は地蔵菩薩で、子どもの供養の為に造立されたものとわかる。

国道沿いを北上し旧 峠への路に逸れて集落に入ると、電車で隣りに座っていたトレランの単独男性が追い抜いて行った。
2018年11月には家々の軒先で計4匹の猫を見かけたのだが、今日は寒さの為か姿が無い。

八坂神社の「子育て地蔵尊」には大きな地蔵菩薩(寛政十一年(1799年))と馬頭観世音菩薩(同年)があり、儀軌に基づいた三面の忿怒相の馬頭観世音菩薩は迫力満点だ。
峠路に入り直進すると、飯能市吾野地区 最古の馬頭観音像塔(宝暦五年 1755年)がある。
苔蒸した大きな露岩を台座とするこの馬頭観音は峠路の長い歴史を感じさせるものだ。
地元では「ままの上の馬頭さま」と呼ばれて大切にされていたという。

通い慣れた峠路を辿り、右に屹立する巨岩と 左の大木を生やした艦船のような大岩に挟まれたところで一息つく。
ここは「山ノ神」だが現在 祠などは見当たらない。
それにしても、いつ来ても静かな峠路だ。下部の沢沿いの径はやや荒れており峠まではずっと人工林なので景観としてはまったく地味だが、少なくとも鎌倉時代にまでは遡る人馬の通行の歴史は現代のハイカーの心にもそこはかとない慕わしさを呼び起こして、峠路にさやさやと流れる優しいそよ風には かつて往来した者たちの遠い息づかいが感じられる。

県道を跨いでゆっくりと登り、9時30分 旧 正丸峠に辿り着く。
これまでの静けさから一転、峠には北西からの強風が吹きつけていた。すぐ後ろから追いついてきた男性も驚いているようだ。
稜線からはゴウゴウと風が唸る音が間断無く続き、木々がザワザワと揺れている。

男性はすぐに南の伊豆ヶ岳のほうに向かった。私は北の虚空蔵峠や刈場坂峠を目指すつもりだったがあっさりと諦めた。
なにも寒風吹き荒ぶ稜線を風に逆らってまで歩く必要もない。
風を避けるように西に下り、今日の序盤は「秩父往還 旧 正丸峠越え」となった。



2、 旧 正丸峠の歴史

(歴史については2年半前の過去日記に詳述しましたので一部改変して引用します↓)

旧 正丸峠が飯能と秩父を結ぶ道としての役割を終えたのは、昭和8年から新たに「正丸峠」が開削されて昭和12年に国道が開通した事による。 
当時の西武秩父線の終点だった吾野から秩父までバス路線が開かれると、新しい正丸峠が脚光を浴びて旧 正丸峠越えの長い歴史が終わった。 

【新編武蔵風土記稿】には旧 正丸峠について「南沢峠。一に小丸峠、又は秩父峠ともいへり」とある。 
「南沢峠」は西に流下する沢名、「小丸峠」は山名、「秩父峠」はこの峠が江戸から秩父に至る最短の往還上に位置する事に由来する。 

さらに手元の史料や書籍から、この道筋の歴史と峠の姿を振り返る。 

「武蔵から甲州へ向かう道筋としてよく知られるものは、まずは五街道の一つで江戸日本橋より笹子峠を越えて甲斐に至る甲州街道、次にその甲州街道の内藤新宿から分かれて青梅街道に入り、大菩薩峠を越えて甲斐に至る道筋がある。 
そしてもう一つ、「甲州裏街道」と呼ばれた道がある。 
青梅街道 田無宿から所沢、飯能を経て旧 正丸峠を経由し、秩父から雁坂峠を越えて甲斐に入る道だ。 
いわゆる「秩父甲州往還」であり、江戸から秩父大宮までが「秩父道」、秩父大宮から雁坂峠までが「甲州道」となる。 

このうち秩父道には「熊谷通り」(矢那瀬経由か釡伏峠越え)、「川越通り」(粥新田(粥仁田)峠越え)、「吾野通り」(旧 正丸峠越え)、「名栗通り」(妻坂峠か山伏峠越え)の4つの径路がある。 
「吾野通り」と「名栗通り」は江戸と秩父を結ぶ最短路であり、甲州道への連絡路として甲州街道の間道の役割もあった。

また「吾野通り」のほうが歴史は古く、中世の鎌倉街道 秩父道はほぼこの道筋であり、少なくとも鎌倉時代からこの道は存在していたと考えられる。 
南北朝期の1324年10月の史料によると、秩父神社造営に必要な材木の搬入先として「吾那郷(吾野)」「那栗郷(名栗)」の名が見え、この街道が使われたようだ。 
その後、甲斐 武田氏の軍用路や文化流入路の役割も果たしたが、各種史料の検討を踏まえると、江戸時代においては、少なくとも享保期(1720年頃)には「吾野通り」は一般化していたようである。 

江戸時代、「吾野通り」「名栗通り」は秩父への最短路として三峰神社、秩父札所、子ノ権現への参詣路としても使われていた。 
特に秩父札所、三峰山参詣への往路や帰路に子ノ権現にも詣でる場合にはこの径路が歩かれていた。 

また、「吾野通り」は物資の流通路としても重要で、秩父特産の絹織物が馬に背負われて運び出される際、特に急ぐ場合には最短距離であるこの道が利用された。

(【歴史の道 調査報告書 秩父甲州往還】(埼玉県教育委員会 平成4年)

また、昭和戦前期のガイドブックや古書には以下のような記述がある。 
「吾野通の一大難關、正丸峠は、溝口健二これを監督し、夏川大二郎これに主演、例の秩父騒動に取材した映畫「仇うち愛憎峠」の舞臺にも描かれている通り、距離は大して遠くない割に、文字通り、羊腸、崎嶇たる細道であって、(中略) 少數のハイカー達が押しかけてゆく以外、まつたく地元の人々の「お嫁入り街道」も同然な状態にあった。」 
(【奥武蔵の山と丘陵】(春日俊吉)朋文堂 昭和15年) 

「正丸峠は秩父と飯能を結ぶ道筋ではありましたが、平常は旅商人などが通る他は人影も見ない淋しい峠でした。ただ、年一回の三峰まいりの日だけは、飯能、高麗、吾野の村の人々がお札をもらいに行くので、終日 賑わいました。(中略) 
大野峠の隣りの三角點のある山は、陸地測量部の秩父の地圖に丸山と書かれてありますが、實は大丸と呼ぶのが正しく、又古い書物には正丸峠を小丸峠と書いてあるので秩父から越生と飯能へ通じる各々の峠路である、この二つの山名に何か關係があるのかも知れません。」 
(【ものがたり奥武蔵】神山弘(奥武蔵研究会 )昭和26年) 

(2017年5月の日記からの引用終わり)



3、「追分の道標」から名栗通りを歩く

ここまではスギとヒノキの人工林だが、峠を境に林相は一変して冬枯れの雑木林となる。
新緑の時季と盛夏の頃は歩いた事があるが冬は初めてだ。斜面のところどころに僅かに雪が残っている。
緩やかな径路をひたすら下り、10時10分、「追分の道標」に着いた。

秩父市 横瀬町指定の史跡で、旧 「名栗通り」と「吾野通り」の分岐点にあるこの道標については町のホームページに詳しい。「芦ヶ久保の入山地区の追分にあり、ミツデカエデの大木の下の秩父側に立てられている高さ90cm、幅46cmの自然石の道標である。 
右は「名栗・八王子」と記され、山伏峠を越え、名栗村で根古屋の生川沿いから妻坂峠を越えてくる道と合流し、青梅・八王子へと通じている名栗街道を示す。
左は「子の権現・江戸」と記され、旧正丸峠を越えて吾野、飯能を通り、川越・江戸へと向かう秩父街道を示している。 

また、北東約500〜600m離れた柏木というところで、昭和12年、炭焼窯を造成中、渡来銭の入った甕(鎌倉時代末頃)が発見されており、これは備蓄銭と考えられ、この場所が城跡と伝えられることと関連する。 
これらは旧正丸峠の登り口であり、名栗街道との分岐点という交通の要衝に位置しており、この道標の意義の重要さを示唆している。」 (横瀬町ホームページより引用)。

追分の道標を守るミツバカエデの大木の根元には2体の石仏が置かれているが文字は判読できず年代は不詳である。 
この街道の分岐にはかつて人々が行き交い、江戸を目指す人も秩父に向かう人も皆この道標に目を遣り、石仏に旅の安全を祈ったのだろう。 
長年の役目を終えた石道標は、今は苔蒸した石仏と共にひっそりと樹下に憩う。 

ここから名栗往還の古道に入る。
2017年7月以来 二度目で、まだ足が径路を覚えていた。誰にも会う事の無い静かな古道は心を落ち着かせてくれる。
甲仁田山を北に仰ぐ松枝の集落の裏に出ると神社や石造物があるが、前回は太陽信仰に纏わる「日待塔」かと思っていた石碑は「巳待塔」である事がわかった。
巳の日に講の仲間が集まってお祈りなどをしていた巳待講の祈念塔である。

県道53号線を南進して横瀬町から飯能市域に入ったところで道路を外れて沢沿いに入り、小さな露岩で長い昼休憩を取った。



4、山伏峠へ

名栗げんきプラザまで歩く間にも、時々ツーリング族や改造車が爆音を立てながら通り過ぎて行く。
そんな県道を歩いていてもつまらないので、山に入って山伏峠の東にある小ピークまで適当に登り、伊豆ヶ岳と山伏峠を結ぶ登山道に合流して峠に下る事にした。
山に入ると小鳥の美しい囀りが耳に優しい。途中までは植林の仕事道があってわかりやすかったが尾根筋には岩場を迂回する場面があり、やがて径路を失って暫し苦戦を強いられた。それでも梢越しに徐々に展望が開けてくるのは爽快で、登り応えがあって楽しい。

13時過ぎに登山道に合流して峠へと下り始めると、ゆっくりと登ってくる高齢男性に出会った。
80代と思われる方で、「今日は上のほうは風が強いです」と話しかけると「うん、風が冷たいね。」と返ってきた。おそらく武川岳から山伏峠に下り、もう一座登ろうと伊豆ヶ岳を目指すところなのだろう。

山神の祠を見て下り、山伏峠に降り立つ。
江戸と秩父を結ぶ往還の一つ「名栗通り」は名郷で二手に分かれ、妻坂峠か山伏峠を越える道があった。
昔は妻坂峠越えのほうがよく使われ、通行量は山伏峠との比較では6:4程度の割合だったといわれている。
現在の山伏峠は県道に貫かれて昔の名残は全く無いが、県道を離れた南の山中には往還の古道が残っている。



5、名栗通り 山伏峠下の馬頭観音

幾つもの倒木を跨いで下ると古道が現れ、南へと辿る。小さな沢を渡るところには石積みの橋脚が残っており古道の趣きが感じられる。斜面につけられた水平径路から右手に西の山波が少し開ける辺りは雰囲気が良いのだが、何気なく左斜面に視線を移すとそこに馬頭観音 像塔を見出だした。
前回は気付かなかったのでこの発見はうれしい。
早速 斜面に取り付いて検分してみると「奉○立 明和七寅○ 八月吉日」の文字が読み取れた。馬頭も欠けずに残っており、全体として状態は良い。
往時の景観が完全に失われた山伏峠において、南に僅かに残る古道の区間に、確かに昔ここを人馬が行き交っていた事を証明するこの馬頭観音が存在する意味は大きい。

(帰宅後に調べると【名栗之石佛】(名栗村教育委員会 昭和57年)に記事があった。

馬頭観音 明和七年(1770年)
奉徳立 明和七寅年 八月吉日
水野三郎右ヱ門
「山伏峠の急坂にかかる場所に立つこの馬頭観音は静かに目をつむり、この峠を行き来する人々の通交の安全を祈っているかのようである。
水野家を訪れると、ひいおじいさんが、糸まい師をしており、秩父へ馬をひいてはまゆ買いに行き、そのまゆは、近所の人を使って糸にしたり、まゆのまま販売をしたりしていたころの話を聞かせてくれた。(江戸時代中期の)三郎右ヱ門さんもこの峠を何回となく行き来したのであろうが、子孫にはその話は残されていなかった。
(引用終わり)

この馬頭観音は今からちょうど250年前に造立されたものだ。当時の水野家の子孫の話からは、秩父とを結ぶ往還としての山伏峠越えの歴史の一端がうかがえて興味深い。



6、じじい ばばあ地蔵尊

ここから少し下ると「じじい ばばあ地蔵尊」に至る。

地蔵 天保10年(1839) 山伏峠旧道
天保十己亥十月 上名栗峠 
真禅定門 施主 孫左エ門 
円名智直禅定尼 孫左エ門妻
「山伏峠に至る旧道を登って行くと杉木立の中に一対の小さな地蔵菩薩が立っている。 人々はこれを「じじい、ばばあ」と呼び、その名は今、地名と同じ意味を持っている。
おじいさんとおばあさんは昔、石仏のすぐ前にある沢の近くに住んでいたが、小金をためている事を知った悪人にある夜 殺されてしまったという。老夫婦の悲しい死はうばがみの町田孫左衛門夫婦の信心深い心をとらえ、自らの地に二人の名を刻んだ一対の地蔵菩薩を立てさせたのである。通る人々に老夫婦の供養を願うこの石仏は峠道という場所だけに、その後、花がいつも供えられていたという。 家敷跡をたずねると、もうそこは山林となっており、家があったと思われる平地と破損した一枚の板石塔婆が残っているのみであった。 
(「名栗之石佛」(名栗村教育委員会)

2年半ぶりの訪問となったが、供えられた賽銭の中に平成30年の真新しい五円玉があった。前回は無かったように思うので、その後 誰か私のような古道愛好者がここを通ったのだろう。



7、伊豆ヶ岳西尾根で鹿と話した話

時刻は14時過ぎ。このまま下山してしまうのはもったいないし、もっと脚力を使わないと足がなまってしまう。
地図を見るとちょうど左手の尾根を登れば伊豆ヶ岳直下の登山道に合流できそうだ。
古道を外れてそのまま尾根に取り付き、登る事にした。
地図で見るよりも勾配はきつく、忽ち爪先上がりの登りとなる。
以前、伊豆ヶ岳の隣りの古御岳に西から登った事があるが西麓 湯の沢の八幡神社の裏手から山頂までは赤テープも無いまっさらな尾根でひたすら急登一辺倒だった。
隣りの山であり今回も西からなので同じような地形らしい。

伊豆ヶ岳は古来、山麓民や修験者の信仰の対象であり、稜線伝いに加えて東側からの登路は沢沿い含め現在も幾つもあるが、西側からの登路は皆無である。
西の谷の名栗村からは伊豆ヶ岳の特異な山容を仰ぐ事はできない。よって信仰の対象にはならず、そもそも西から登る路は拓かれなかったのかもしれない。
以前の「古御岳西尾根」、今回の「伊豆ヶ岳西尾根」共に短いながらもバリエーションルートを開拓するような気持ちでの登りとなった。

立ち止まってゼリー飲料を補給し、再び歩き出した瞬間、右の斜面から鹿の鋭い警戒鳴きが沸いてガサガサと逃げる音がした。しかしすぐに立ち止まり、また「ピイッ!」と鳴く。
突然 縄張りに侵入してきた私に抗議するかのような強い声色だ。

鹿の個性や性格は個体ごとに異なっていて面白い。
人間の接近に気付くなり一目散に逃げる臆病な鹿、振り返ってこちらをじっと見ている好奇心旺盛な鹿、人間を気にもせずに足元の草を食み続ける大胆かつ穏やかな性格の鹿、そして、近くで立ち止まったまま何度も抗議する 気の強い鹿である。

このうち「抗議する鹿」で最も印象深かったのは、2014年の夏に西丹沢 大室山南面のバリエーション尾根で出会った小柄な鹿だ。
尾根上の近距離で目が合い、次の瞬間 跳躍して斜面に逃れた鹿。しかし、その後はその場にとどまりずっと「ピイッ!」と声をあげていた。私が立ち去りながら「ゴメンゴメン」「大丈夫だよ」「はいはい」と答えるたびに鹿も「ピイッ」と返事をするのだった。

今回の鹿も同じタイプで、私も「ゴメンよ」とか「元気でな」とかいちいち応えながら登っていくのだが、私が急傾斜の尾根でずいぶん高度を稼いでも、まだ谷筋から鹿の返事が聴こえてきて、やりとりが長時間続いた。
私が50回以上、鹿も同じく50回以上の発声で、こんなに鹿との「会話」が続いたの初めてだ。
最初は鋭かった鹿の声色も次第に穏やかになっていたように感じられ、敵ではないと理解してくれたような気がしてうれしかった。尤も、単に脅威となる人間が遠ざかった事がわかったからだろうが…。
「伊豆ヶ岳の鹿」、これからも元気に暮らしてほしいものだ。



8、寒風吹き荒ぶ「伊豆ヶ岳」山名由来考

登るほどに傾斜が厳しくなり、最後は前方に岩壁が立ちはだかったが、何とか間隙を縫って這い上がり山伏峠からの登山道に合流した。
ここから山頂までは一投足だが北西の風はかなり強い。昼過ぎに峠近くで擦れ違ったおじいさんは登頂したのだろうか。
ひょっとしたら山頂にはまだ誰かいるかもしれないと思いながら登り詰め、15時半 伊豆ヶ岳 山頂に到る。
しかし南北に長い山頂は見渡す限り無人で、ただ北風だけがビュウビュウと吹き抜けていた。
かつては奥武蔵の銀座と呼ばれて今も人気の高い山だが、冬晴れの展望を求めて登ってきたハイカーたちも、寒風吹き荒ぶ夕方の頃ともなればさすがに全員 下山してしまったという事か。
細長い伊豆ヶ岳の山頂には南端、北寄り、北端と三つの露岩帯があるが、このうちかつて茶屋があった付近の露岩には、当時の名物おかあさんのお顔が「伊豆ヶ岳おばーさん」の銅板レリーフとなって飾られている。

さて、伊豆ヶ岳の山名由来については諸説紛々として面白いが、遠望した時の山容や隣りの古御岳(小御岳、古伊豆)との関係、かつて山頂に虚空蔵菩薩の石像など複数の石造物が祀られていたという事実から推定するに、昔の修験者によって名付けられたとする説を私は採りたい。
かつては熱烈な信仰を集めて箱根権現と双璧を成していた熱海の伊豆山権現を崇める修験者たちが武蔵野の涯に辿り着き、この突兀とした山に伊豆の名を宛てたとする説は山岳信仰に興味がある私にとって興味深い。
南東に伸びる尾根伝いにある古刹「子ノ権現」から見る古御岳と伊豆ヶ岳の特異な山容が、子ノ山修験の修験者たちにとって信仰上の重要な意味を持っていたと考えるのが自然だろう。

山頂に柚の大木があったから、とか山頂から伊豆の海が見えたから、といった説は地元の古老の中にはそう断言する方もいたというが、おそらく山名から着想を得た後世の付会であると考えられる。
一方、山麓で湯が沸き出していたからという「湯津ヶ岳」説は、沸き出す熱水としての温泉がその信仰の源流にある「伊豆山権現」の「伊豆ヶ岳」説を補強するものとして面白い。
一方、奥武蔵研究会の神山弘氏は山麓から仰いだ形に注目してひときわ「出ヅル」山としての「イヅ」説を唱えており、これはアイヌ語起源説だが、本来の正解を求める術が無いというのが山名考証の面白いところだ。

なお、2月26日、まさにこの日記を書いている今(2月25日)の翌日に、 興味深い本が出版される。
「山村民俗の会」の機関誌 「あしなか」で健筆を振るい、興味深い記事を多数書かれていて私もファンである岡倉捷郎氏の【神龍の棲む火の山 奥武蔵より伊豆山、日金山、富士山へ 熊野修験の影を探る】(梟社 ・新泉社)である。
Amazonで予約受付中の本書の紹介には以下のように書かれている。
「従来、霊山は祖霊や水分神の居所とされていた。それに対し、著者は、伊豆山、日金山、富士山の信仰の根源にある噴火をもたらす火の神と、その現れである神龍の信仰に着目、そこに流れる熊野修験の影をさぐり、さらにはその信仰が奥武蔵から東北の遠野にまで及ぶことを解明する野心作。」
帯の推薦文は日本山岳修験学会 名誉会長で慶應義塾大学名誉教授の宮家準 氏によるもので、本書を「刮目に値する好著」と述べておられる。

「あしなか」誌には本格的な研究者や熱心な郷土史家が寄稿なさっていてどの記事も面白いのだが、 素人の私から見ても内容の信頼性や考証の裏付けという面で玉石混淆である事はよくわかる。
その中で岡倉氏の記事は輝く玉の部類に属するもので、非常に読み応えがあって楽しい。
この度 出版される本の中に、おそらく伊豆ヶ岳の山名起源について私にとっての「解答」が詳しい解説付きで示されているだろうから非常に楽しみだ。



9、長岩峠から大蔵山へ下る

無人の伊豆ヶ岳は滅多に味わえるものではないので長居したかったが、あまりにも風が強くまた夕暮れも迫ってきた為、景色を見回してから早々に下山にかかった。
だいぶ下って長岩峠に差し掛かる頃には風は止み、折り返して大蔵山の集落目指してひた下る。

「かめ岩」「ふたご岩」といった見た目通りの露岩を見て下るこの道は、2015年5月に ある女性と下って以来5年ぶりである。
彼女は当時 丹沢山塊のみにこだわっていた私に奥武蔵を教えてくださった恩人ではあるが、三度ばかり奥武蔵に御一緒させていただき、その後はこちらから連絡を絶った。
思えばなにも断絶する必要は無かったのだが、人との関係を築き上げる事を面倒がってフェードアウトしていくのは昔から自分の特性であり、そうした悪い面が出てしまったほろ苦い過去である。

登山口にある馬頭尊を見て16時50分、下山を完了した。
荷物を整理して身支度を整え、路傍の石造物など見ながら大蔵山の集落をぶらぶらと下り、正丸駅に着いたのは17時半。ハイカーの姿は一人だけ、なんと朝の旧 正丸峠で見かけた男性だった。
しかしトイレから戻るともう姿は無く、広い駅前は無人だった。辺りはとっぷりと暮れ落ちて、駅の照明が眩しい。
電車を一本見送ってベンチで残りの食料を片付けたが、その後も誰も来なかった。
今日は伊豆ヶ岳からの最終下山者となったようだ。



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