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2020年03月02日11:39

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2-11 奥武蔵 森坂峠 イモリ山 と小床のおばあさん

2020年2月11日(火)
奥武蔵 子ノ権現 近傍の山と峠

晩冬の奥武蔵 本陣山・森坂峠・イモリ山
https://yamap.com/activities/5614358


1、昔の子どもたちの通学路 森坂峠

夜は家庭教師の仕事があるがせっかくの好天の祝日、奥武蔵の山を少し歩く事にした。
西吾野駅に到着したのは13時。17時には駅に戻りたいので山を歩ける時間は4時間しかない。

駅前からすぐ西に見えるのが本陣山(442)で、北麓には本陣平の名があり、小字は本陣。昔 どこぞの武将がここに布陣したのが地名の由来だという。

坂を降りて橋を渡ると鳥居があり、階段を上ると詳細図に天満宮とある天神社だ。
散歩のお爺さんがいらしたので挨拶したが耳が遠いのだろう、気づいてもらえなかった。
参拝して踵を返すと地元の60代くらいの男性が上がってきたので挨拶を交わした。
昼から歩くとなると何だか気持ちが弛緩してしまい、のんびりと歩く。
南下して高麗川に架かる橋を渡り林道のゲートを抜けると、上から男性ランナーが二人駆け下りてきた。

枯れススキの野原に入って浅く開けた谷を奥に進むと突き当たりの斜面に径路があり、これが森坂峠への登り口だ。
今年は記録的な暖冬とあって、例年であればまだまだ寒い時期だが少し歩くともう暑い。長袖一枚になって山に入る。
人工林の斜面をやや性急な電光形に登る路は明瞭だが峠に近づくと少し急になる。登り始めから20分、森坂峠に着いた。
詳細図の説明によると、久通川沿いの集落から山を越えて高麗川沿いの吾野の学校に通う子どもたちの為に開かれた峠だそうだ。

高麗川沿いには吾野小学校、やや南下して吾野中学校、西川小学校、そして東吾野小学校があったが、子どもの減少に伴って統廃合され、2019年春に「奥武蔵小学校」と「奥武蔵中学校」から成る中高一貫校「奥武蔵創造学園」が開校した。

昭和10年代に武蔵野電車の観光課がハイキングの宣伝で使い始めた「奥武蔵」の名称は北は丸山や武甲山、南は天覧山や多峯主山までかなり広大な山と谷を包含するものとして、戦前から今日に至るまでハイカーや観光客にはすっかり定着したが、それが実在の学校名になると何やら壮大というか茫漠というか、何ともいえない違和感を感じてしまう。

21世紀の「奥武蔵創造学園」……
今はひっそりと静まる森坂峠に佇んで、昔ここを通った旧 小学校の子どもたちの姿を想像すると、全くの部外者の私も今昔之感に堪えない。



2、旧 森坂峠 自然に還りゆく峠路への愛惜

峠から北の本陣山へは尾根伝いに一投足だ。途中、アンテナが立つ場所は刈り払われて南東の展望が開けている。
山頂は檜が主体の人工林の平坦地で、山頂標識が木の根元に石で固定されていた。

峠に戻り、そのまま南に進んで二つほど小ピークを巻くと「旧 森坂峠」に到る。
地図を見ると通学路だった森坂峠越えよりはやや緩やかで、地形に逆らわずにゆったりと付けられた径路は、かつて西の久通川沿いの小集落と東の高麗川沿いの秩父往還とを結んだ旧道らしい佇まいだ。
今は使われていない為に倒木で荒れているとの事で、確かに見える範囲でも下草がかかって自然に還りつつあるのがわかる。

木々の梢から小鳥の囀りが優しく軽やかに響き、鬱蒼と翳る峠路には幾条もの細やかな木洩れ日が注いで、消えかけた古径を静かに仄かに照らし出している。
峠に流れるそよ風に乗って、子ノ権現の鐘の音一つ。
この辺りの小さな、本当に小さな忘れられかけた峠として、高麗川の対岸の三社峠や大窪峠、子ノ権現の中沢口に近い南沢峠などには忘れ難い風情があるが、この旧 森坂峠の風趣はまた格別で、また一つ愛すべき古の峠路の余韻が私の心に優しく刻まれたのだった。



3、イモリ山の山神社と道迷いの母子

前方のピークを巻く径路を辿ると単独男性ランナーと擦れ違った。
静山派の私は総じてトレラン、特に徒党を組んで山をバタバタと走り回る「ファンラン」と称するジャンルが騒々しくて嫌いだが、単独または二人ほどのランナーが己に何かを課しながら一陣の風のように駆け抜けていくのは実に清々しく、その脚力や精神力を含めてむしろ尊敬に値する。

東の412Pを踏んでから径路に戻り、足元の露岩を縫って登っていくと山頂の直下に石祠があった。
古いものではなく、奥武蔵の山では標準的に見られる既製品のような型の祠だ。
扉を開けると「天照皇…」とあるので天照大神を祀るものとわかる。
驚いたのは五百円玉の御賽銭があった事で、祠の周りにも五円玉や十円玉が隙間無く敷き詰められており、最近見た中では 御賽銭が最も多い。それだけ霊験あらたかな神様なのだろうか。

祠から山頂へ行こうとすると、前方の道に30代前半くらいの女性の姿が見えた。後ろには木の棒をついた小学校低学年らしい男の子がいて、祠を見て「御詣りしていく?」と母親であろう女性に聞いている。

私の後ろを登ってきたお母さんが山頂の手製標識を見て「えぇっ、イモリ山!?ここどこぉ?」と甲高い声を上げ、私に救いを求めるような目を向けた。
母子二人とも山慣れしているようには見えない。
聞けば、子ノ権現への参拝を終えて西吾野駅に帰るつもりが道に迷ったらしいという。お母さんは地図を取り出したが縮尺が粗くて山名も載っていない。
私が詳細図を出し、「来た道を石道標がある分岐まで戻るように」とアドバイスしたが、「近道はありませんか?」と食い下がられた。
私製道標しか無い森坂峠方面を勧めるわけにはいかず、引き返すよう説得すると、なんとか納得していただけた。
道迷いで少なからずパニックになったのか終始忙しなくて落ち着かないお母さんだが、せっかくだからとイモリ山の標識を写真に収め、「ゴメンねー、お母さん間違えちゃった!あーもう何で??ホントにゴメン。」と息子さんに何度も何度も繰り返し謝っていた。
息子さんは疲れきっているわけでもなく、そこまで子どもに謝る必要も無いと思うのだが…。
「ここまで来たんだからそこの神社の神様に御詣りしていきな。」と私は子どもに声をかけたが、これには母子共に無反応だった。
子ノ権現に往復するだけのつもりが普通の地図に無い山の中を独りで歩く不審な中年男に遭遇し、道だけ聞いてさっさと離れようと思われたのなら些か心外だが自分の人相風体をかえりみれば仕方ない。
SNSに、イモリ山の山賊とでも書かれたらどうしようかと苦笑いが出た。

引き返して行く二人の背中を見送ったが、暫くお母さんの声が聴こえていた。



4、イモリ山は御飯を盛った形「飯盛山」

この辺りの低山は山頂まで人工林に覆われている山が多いが、イモリ山の山頂付近はほぼ露岩の為か植林を免れ、冬木立の梢越しに周囲の山波が見えて爽快だ。
岩混じりの硬い地盤の上に苔が乗り、疎林が形成された山頂の雰囲気は頗る良い。
山神社はこの小さな岩峰を依り代としているものとわかる。

山波からふと眼下に目を移すと、なんと出発地の西吾野駅の駅舎と線路がしっかりと見えている。もう少し早く気付いていれば、先ほどの母子に あそこがゴールですよ!と伝えられたのだが。
山頂から西に僅かに下りたところに小さな平坦地があり、ここで遅い昼休憩を取った。

イモリ山はどの資料を見てもすべて片仮名で山名由来がわからなかったが、その答えは最近入手したばかりの【地図にない道 −奥武蔵研究会との三十年】(山倉 進 私家版)にあった。
「振り返ると、イモリ山の全容が見える。この名の山に共通した山の形がイモリ山にも見られる。茶碗に飯を盛り上げた感じは、下久通の道からではテンコ盛の姿になる。」
昭和55年10月の山倉氏の山行記録には、以下のように記されている。
「下久通の主婦は、あれがイモリ山で良い山だ、家の庭から見える姿がいちばんいい、月があそこから出る、と教えてくれました。最奥部落の老主人は、地図を地面に書いて森坂峠を教えてくれました。」

昭和55年10月といえば、私の5歳の誕生日の頃だ。今年45歳になる私が今立っている山の麓で、40年前にハイカーと里民の間で交わされた束の間の交歓を思うと、独り勝手に何やら感慨深いものを感じてしまう。



5、鉄塔下の展望地で単独男性と語る

山頂から下る時、ランナー3人ほどが下を駆けて行くのが見えた。間もなく安曇幹線345号鉄塔に至る。狐色の枯れススキに優しく彩られた小ピークに屹立する孤高の鉄塔だ。
安曇幹線は長野県の北アルプスの懐にある梓湖(奈川渡ダム)の安曇発電所から埼玉県鶴ヶ島市の新所沢開閉所までの168キロを結ぶ送電路で、信濃の大規模揚水発電所と首都圏の27万5000ボルト外輪線を結ぶ幹線として昭和44年に完成したという。

鉄塔直下からの展望は全方位で、標高が低いので景色はすべて奥武蔵の低山丘陵だが、それがかえって温かく感じられて落ち着く。誰も居ないのもまた良い。
さあこの展望をじっくり楽しもうか、というところで背後から足音が聴こえて、50代後半くらいの眼鏡をかけた単独男性が現れた。目が合って挨拶を交わしたが彼も私も単独志向の静山派、内心はお互いに決して良くは思っていない。

私は彼が去るまでの時間潰しにと地図を広げ、男性は山波をじっくりと眺めて写真を撮っている。
私も顔を上げて山々を眺め、ふとどちらからともなく会話が始まった。
男性は坂戸市からいらした方で、秋から春にかけては奥武蔵の山ばかりを歩き、今日はこの鉄塔下からの展望を見る為だけに立ち寄ったという。この辺りの山域について私より詳しい先輩だ。
朝は名栗の原市場から周助山に登り、そのまま幾つもの低山を縦走してここまで来たという。
さっき母子に出会わなかったかと尋ねると、姿は見ていないが声は聴こえたとの事。どうやら分岐まで無事戻って下っていったようだ。
この男性は山慣れした落ち着いた雰囲気で、ひょっとして山や峠の歴史が好きな同好の士かと探りを入れたが、「山からの展望が好きで歩いてる。展望の無い藪山にはあまり入りたくない。」との事で、山岳展望派の方だった。
帰りの電車の時間まで決めていらして、思わず「計画的ですね!自分はいつも行き当たりばったりで。」と言うと「細かく計画を立てるのも楽しいものだよ。」と微笑で返されて、私はなるほどそれもそうだなと妙に納得した。
去る男性に別れを告げて、私は鉄塔下に残った。

独りで山に入る人は、人と話す為に山に来ているわけでは無くむしろ私などは人を避けたいほどの静山派だが、決して人間嫌いというわけではなくちょっと不器用なだけなのだ。取っ掛かりさえあれば、互いに同じ志向を持つ者同士で話が弾む。
そんな気持ちでまた山波を見渡すと、北の山肌の景色の中には何本もの送電線鉄塔が立っていた。
孤高に見えるこの345号鉄塔にも、当たり前だが仲間がたくさんいるのだ。
私は何とも温かい気持ちになって、また周囲の山々をゆっくりと見渡した。

どんぐりの背比べのような低山丘陵の中でやはり目立つのはすぐ西の、一昨日 歩いたばかりの伊豆ヶ岳の台形と、隣りの古御岳の正三角形だ。
北に連なるいわゆる奥武蔵高原の山々、言い換えれば奥武蔵外輪山とでも呼ぶべき山々から眼の焦点を戻すと、目の前にはぽっこりと、なるほど確かに御飯を盛ったような形の小さなイモリ山がある。
そこでこの「飯盛山」を視野の中心に置いて眺めてみると、今度は回りを大きく「囲」む山波がこの小さな山を「守」る「囲守山」に見えてきて、また中心のイモリ山への愛着が深まるのだった。
山肌は西日に照らされて赤銅色に染まり、時刻はもう夕方16時、鉄塔に別れを告げて歩き始める。



6、丁目石と小床口参道 清心地蔵の伝説

鉄塔から参道の丁目石までは、ほんの一投足だった。母子が誤って入り込んだ分岐は確かに明瞭な形で二方向に分かれており、普通に考えれば下りの人はそのまま下るはずだが、間違えてしまっても何ら不思議ではない。
あの明らかに山慣れていない母子もあのまま私にも誰にも会う事無く進めば道迷い遭難の可能性もあった。
そこで近くに落ちていた間伐材を集めて通せんぼの目印を作ってみたが、我ながらまずまずうまく出来たように思う。

傍らの丁目石は自然石に太く深く「天寺十二丁目」と刻んであるもので、秩父郡の村の新井姓の名があった。
子ノ権現の寺務を司る別当は天台宗の天龍寺であり、「天寺」は山上の寺の意も込めた子ノ権現の尊称だ。
【特別展 山上の霊地 展示図録】(飯能市郷土館)によれば、小床の参道に丁目石が建てられたのは江戸時代中期 安永八年(1779年)との事なので、これもおそらく同じ頃のものだろう。
この地には「峠ノ前」の名があるが、これは参道をさらに登った先の「柿ノ木峠」の手前にある事から名付けられたものだろうが幾つかの説があるのでまたあらためて調べてみたい。

ここからは参道を下るが下部は岩混じりのよく踏み固められた路で長年の歴史が感じられた。参道入り口の大岩を乗り越えるところには「清心地蔵」と呼ばれる小さな地蔵様が立っている。
戦後に復刊した雑誌【山と高原】(朋文堂)の86号には「小床口は峠ノ前から伝説のある清心地蔵の前を経て小床に降り…」とある。

昔、子ノ山に清心という僧侶がいて、参詣の人々が岩の多い小床道で難渋しているのを見かねて、独力で現在の道を拓いたという。その功績を称えて記念に村人が安置したのがこの清心地蔵である、という伝説だ。



7、小床のおばあさんの昔語りとピース君

清心地蔵と対面するように神社の鳥居があり、くぐって岩を削った石段を上ると、東屋のような開放型の質素な本殿が岩壁に嵌め込まれた形で鎮まっていた。
巨岩の中腹に位置するこの神社は「静ノ神社」(静之神社)で、社殿は平成の中頃に建て直されたものらしい。
小床地区の最奥部にあるので、地区の氏神社だろうか。

暮れなずむ集落の坂道を下っていくと左手の墓地におばあさんの姿が見えて、その足元では小さなシーズー犬が私を見ながら尻尾を振っている。
私に気付いたおばあさんが、犬に引っ張られるようにして墓地から出てきた。

とても人懐っこい犬で私が撫でてやると大喜び、年齢は2歳半との事で遊び盛りの子犬だ。失礼ながら、シーズーとおばあさんの顔がそっくりに見えて微笑ましい。
一通りの挨拶をして別れを告げ、尚も坂を下るが、おばあさんに先程の神社の事を尋ねなかった自分の迂闊さに臍を噛む。

不意に、左手に立派な六地蔵が現れた。
しっかりとした台座の上の六角柱の各面に六体の地蔵が浮き彫りされた、いわゆる六面幢である。
秩父郡と宝暦五年(1755年)の文字が読み取れる。

寺の中でもない山間部の路傍にこのような立派な六地蔵がある事に感心しながら眺めていると、先程のおばあさんとシーズーが坂を下りてきた。

私が「立派な地蔵様ですね。驚きました。」と言うと、なんとこの方が六地蔵の手入れや掃除をなさっているという。
山の歴史や山麓の信仰が好きで歩いている事を告げると、この後30分以上もおばあさんから貴重なお話を聞く事ができた。

話は次々に移り変わっていったが、だいたい以下のような内容である。

「静ノ神社に祀られているのは毘沙門天で武勇の神様。他の神様も合祀されている。」

「地区の名称の小床(古老はコイカと発音)は、この辺りの地形が床のように平たい斜面である事に由来し、以前は麦などを栽培していた。」

「この辺りに多い浅見(アサミ)姓は武蔵七党の一つである児玉党の流れを組み、秩父の浅見(アザミ)とは系譜が異なる。」

「すぐ近くの吉田山にはテンポコと呼ばれる場所があり、近くに出城があった。戦があった時、馬に乗った武将が門松で眼を突かれて落馬落命。以来、山麓では正月の門松は立てない。また、鶏小屋の裏に隠れた武士は鶏が鳴いた事で敵に見つかってしまい、それ以来、山麓では鶏を飼わない。」

「首無し地蔵(清心地蔵、あるいは静ノ神社の地蔵か)は後に新しく顔が造られて今の姿になった。」

「小床地区の下の方には、たいぞう地蔵や石仏があったがいつしか盗まれて無くなった。」

「昔は10月の神社のお祭りの日には寿司祭りといって稲荷などを配って賑わった。」

「昔の人は子ノ権現から尾根伝いに秩父大宮に出ていた。」

この方は教員歴35年、退職後は読書が趣味で郷土史に関心があり、我野神社の神主とも親しいとの事。
話の最中に、「いやあ、全部覚えていられるかな。この後 日記を書くんです。」と私が言うと、「覚えることなんてないのよ。これは私が年配の方から聴いたり、本に書いてある事だから。」とおっしゃったが、私も奥武蔵の資料はハイカーとしてはずいぶん集めたつもりだが知らなかった事ばかりで興味深かった。

この他に語ってくださった、昔、静ノ神社で起きたというある「事件」については、その顛末も含めて今なお神罰や祟りの存在を信じる山村の人々の心をうかがわせるものだったが、関係者が御存命かもしれないので詳細は書く事ができない。

会話の間中、小さなシーズー犬「ピースくん」は私の顔を見上げて座っていた。あらためて「ピースくん可愛いね、いい子だな。」と撫でると、おばあさんは「パンダみたいな顔して!」とおっしゃっていたが、良い意味でやはり飼い主は犬に似るものだな、と内心つくづく感じるのだった。

感謝の言葉を述べて別れを告げ、坂を下ると左手の家の庭を横切る動物が目に入った。一瞬 アライグマかと驚いたが、よく見ると毛の模様がアライグマそっくりの、長毛種の猫だった。家の戸が少し開いて明かりが漏れているので、庭に散歩に出てきたようだ。私よりもピースくんがいる方向を見ていたので、顔見知りなのかもしれない。

【飯能の石仏 ふるさとの証言者】(飯能市教育委員会)に小床の六面幢について記述があった。
「笠付型浮彫立像 宝暦5年 1755年
秩父郡 上吾野 願主 了因 小床講中
永く山の霊気に晒されたためか、石の角がとれてより素朴なたたずまいです。」

おばあさんとピースくんに再び会わせてくれた六地蔵に感謝しつつ、西吾野駅に戻ったのは17時半。
午後から夕方までの僅か4時間だが実に中身の濃い日となった。
車中でおばあさんの話を手帳にメモしつつ、充実感の余韻に浸りながら帰路に就く。


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