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2020年01月21日04:17

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市川紀行18 手児奈霊堂 / 六所神社

 5日日曜日は弘法(グホウ)寺に参拝した後、その管轄下にある手児奈霊堂を訪れました。手児奈霊神堂とも呼ばれます。
 https://www.google.co.jp/maps/@35.7382339,139.9068846,17z?hl=ja
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 伝説によると人皇第34代舒明(ジョメイ)天皇〔位;629〜641〕の御代の話として、国造の娘で絶世の美女だった真間(ママ)の手児奈(テコナ)の悲劇が伝えられています。
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 それによると、彼女は近隣の国へ嫁いだものの、下総国と嫁ぎ先の国との間に争いが起こった為に離縁されて子と共に帰郷します。しかし、離縁されたのを恥じて実家に戻れぬままとなり、我が子と二人だけで静かに暮らしていました。
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 ところが、彼女の美貌に魅せられた男達が争奪戦を繰り広げる騒ぎとなったため、これを厭った彼女は真間の入江に入水してしまったとされているのです。
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 『万葉集』には、山部赤人(ヤマベノアカヒト;?〜736?)や高橋虫麻呂(タカハシノムシマロ)が彼女を詠んだ歌が収録されています。
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 弘法寺は、天平9(737)年に行基が真間の手児奈の霊を供養するために建立した求法(グホウ)寺が始まりでしたが、日蓮宗に転向後、手児奈の墓所にその霊を祀る堂宇が設けられた様です。
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 手児奈は仏教徒では無かった筈なので「神」として祀られている様です。
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 神仏習合が今も色濃く残っている訳です。
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 日蓮宗で四士の一人として重視される浄行(ジョウギョウ)菩薩像です。
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 水徳を管轄する菩薩です。
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 境内には市川市在住のさだまさし(1952〜)が寄贈した桂の木です。
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 門前には元禄9(1696)年に幕府大工頭鈴木長頼(スズキナガヨリ)が建てた真間万葉顕彰碑〔市川市指定文化財〕の一つがあります。
 「われも見つ 人にも告げむ 葛飾の 真間の手児名(テコナ)が 奥津城処(オクツキドコロ)」山部赤人(ヤマベノアカヒト)
 赤人は上総小目(カズサノショウサカン)を務めた事がありますから、当地を訪れた事があると思われます。
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 境内では木立蘆薈(キダチアロエ;Aloe arborescens)が咲いていました。
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 手児奈霊堂の南隣には真間稲荷神社があります。 
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 祭神は豊受姫命(トヨウケヒメノミコト)ですが、明治42(1909)年に天満神社が合祀されたため、菅原道真も祭神に加えられました。
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 続いて、弘法寺の塔頭(タッチュウ)であった亀井院を訪れました。
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 亀井院は、真間山弘法寺11世日立(ニチリュウ)上人が寛永12(1635)年に瓶井坊(カメイボウ)と号して建立(コンリュウ)、貫主の隠居寺としたのが始まりです。瓶井坊の名は清水が湧いていた事に由来し、瓶井院とも呼ばれました。
 その後、元禄9(1696)年に鈴木長頼が父長常(ナガツネ)を葬った際、鈴木院(レイボクイン)と改称しましたが、宝永2(1705)年に長頼が日光東照宮の石を当院の石段に流用した廉で幕府に咎められ切腹したため、井戸に霊亀が出現するという伝説に由来して亀井院と改称したのです。
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 その井戸は、真間の手児奈が水を汲んだ井戸とされ、真間の井と呼ばれています。
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 亀井院の門前には真間万葉顕彰碑〔市川市指定文化財〕の一つが建ちます。
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 「勝鹿(カツシカ)の 真間の井見れば 立ち平(ナラ)し 水汲ましけむ 手児奈し思ほゆ」 高橋虫麻呂
 虫麻呂は常陸国府の下僚だったと推定される人物です。
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 亀井院の庫裏(クリ)には大正5(1916)年)5月中旬から一ヶ月半の間、北原白秋(1885〜1942)が住んでいた事があります。当時の白秋は生涯で最も生活の困窮した時代で、 「米櫃(コメビツ)に 米の幽(カス)かに 音するは 白玉のごと 果敢かりけり」の歌を残しています。また、真間の井に関しては 「落の葉に 亀井の水の あふるれば 蛙啼くなり かつしかの真間」と詠んでいます。
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 亀井院境内では八手(ヤツデ;Fatsia japonica)の花が咲いていました。 
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 こちらは日本水仙(ニホンズイセン;Narcissus tazetta var.chinensis)です。
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 次に東方へ向かい、六所神社〔村社〕を訪れました。
 https://www.google.co.jp/maps/@35.7368959,139.9164784,18z?hl=ja
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 六所神社は下総国総社の後身で、社伝によると人皇12代景行天皇〔位;A.D.71〜130〕が西暦123年から翌年にかけて息子の日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の事績を確認するため東国を巡幸した際の勅願による創建とされます。平安時代初期に総社とされたと考えられていますが、鎮座地は下総国府の北隣で、それまでは竪穴式住居の並ぶ地区だった事が発掘調査で確認されていますので、近くから遷座したのかもしれません。
 律令制下では、国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していましたが、平安時代に入ると、効率化のため各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、一括して祭祀を行うようになったのです。
 下総総社の祭神は、大己貴尊(オオナムチノミコト)・伊弉諾尊(イザナギノミコト)・寒川神社の素盞嗚尊(スサノオノミコト)・大宮売尊(オオミヤメノキコト)・布留之御魂(フルノミタマ)・彦火瓊々杵尊(ヒコホニニギノミコト)です。下総国一宮香取神宮の祭神である経津主大神(フツヌシノオオカミ)は含まれていませんので、香取神宮への国司巡拝は省略される事無く続けられたのでしょう。
 総社一帯は大樹が多く、六所の森と呼ばれていました。
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 室町時代になって国府が衰微した後も、総社は六所神社と呼ばれて存続し、戦国時代になって近隣に市河城や国府台(コウノダイ)城が築かれたため、千葉氏・里見氏・北条氏等の守護を受ける事となり、江戸開府後は徳川将軍家から御朱印を賜って崇敬されていました。
 江戸時代には、須和田・真間(ママ)・根本・市川の四カ村の鎮守である一方、勇武・幸運招来・厄払い・縁結び・学問等多くの分野の神として佐倉道を通る旅人の参拝も多かった様です。
 明治維新後は村社に列しましたが、明治19(1886)年の陸軍練兵場造成に伴って、東方の須和田2丁目にあった神主屋敷地の現在地へ遷座したのです。
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《続く》
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