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2020年01月07日05:06

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市川紀行4 葛飾八幡宮 / 八幡の藪知らず

 4日土曜日は、都営地下鉄新宿線で本八幡(モトヤワタ)駅に到着後、コインロッカーに荷物を放り込み、本八幡の駅名の由来になった葛飾八幡宮(カツシカハチマングウ)〔県社〕へ赴きました。
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 https://www.google.co.jp/maps/@35.7242096,139.9305365,17z
 葛飾八幡宮は、寛平年間(889〜898)に人皇第59代宇多天皇の勅命により石清水八幡宮を勧請(カンジョウ)して建立されたと伝えられますが、延喜式には記載されていません。祭神は誉田別命(ホムダワケノミコト;応神天皇)・息長帯姫命(オキナガタラシヒメノミコト;神功皇后)・玉依比売命(タマヨリヒメノミコト)で、国府の近隣だった事もあって、下総の国を守護する総鎮守として崇敬されました。
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 中世には石清水八幡宮領八幡荘の中核ともなっています。
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 武神であることから平将門・上総権介平広常・源頼朝・下総国守護千葉氏・太田道灌・安房の里見氏・徳川家康等の信仰を集めて敬われました。また、幸田露伴・永井荷風・伊藤左千夫等の文豪に親しまれた神社としても知られています。
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 一の鳥居です。
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 二の鳥居です。一の鳥居との間に京成電鉄の踏切があります。
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 随神門〔市川市指定文化財〕です。
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 神仏分離以前の別当寺たる天台宗八幡山法漸寺の仁王門でした。安政2(1855)年に再建された正面柱間3間・奥行柱間2間の丹塗(ニヌリ)八脚門で、桁行10.36m・梁行4.45mあります。屋根は単層茅葺の構造を持った切妻型でしたが、昭和54(1979)年の改修により銅板葺になりました。明治維新の際の神仏分離によって仁王像は行徳の徳願寺に移され、現在は左大臣・右大臣を配した葛飾八幡宮の随神門となっています。平成28(2016)年に塗替え工事が行われています。
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 左大臣です。
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 右大臣です。
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 蟇股(カエルマタ)の彫刻です。
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 神門です。
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 拝殿前に茅の輪潜り(チノワクグリ)がありました。
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 拝殿です。
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 能舞台です。
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 鐘楼です。法漸寺の物ですが、廃仏毀釈で破却されずに済みました。
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 本殿に向かって右手の瑞垣の中に千本公孫樹(センボンイチョウ)〔天然記念物〕があります。
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 注連縄(シメナワ)を張った御神木として樹勢盛んに繁っています。
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 「千本公孫樹」の名は、落雷によって地上6m地点で折れた太い幹を囲んで、多数の枝が根元から立ち上がっているためにつけられたものです。
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 樹高23m・根回り10.2m・目通り幹囲10.8mで、根回りより目通り幹囲のほうが太くなっているのもこのイチョウの特徴です。枝は東側に12.3m、南側に12m張り出し、西側と北側は社殿に接するために伸びが抑えられています。
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 推定樹齢は1200年に達し、八幡宮創建前から生き続けている事になります。
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 イチョウは雄株と雌株がありますが、この木は雄株のため果実はつけません。
 天保年間(1831〜45)に刊行された『江戸名所図会』にも「神前右脇に銀杏の大樹あり神木とす。此樹のうつろの中に小蛇栖(ス)めり、毎年八月十五日祭礼のとき、音楽を奏す。其の時数万の小蛇枝上に顕れ出ず。衆人見てこれを奇なりとす」との記述がみられます。
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 毎年12月上旬の金曜日から日曜日にかけてライトアップ・イベントが行われています。こんな感じだそうです。
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 源頼朝の「駒どめの石」です。
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 江戸城石垣刻印石です。
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 右が菅原道真を祭る葛飾天満宮、左が宇迦御魂之神(ウカノミタマノカミ)を祭る尾上(オノエ)稲荷社です。
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 右が建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)を祭る八坂社、左が木花開耶姫命(コノハナノサクヤビメノミコト)を祭る浅間社(富士塚)です。
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 湍津姫命(タギツヒメノミコト)・田霧姫命(タキリビメノミコト)・市杵嶋姫命(イチキシマヒメノミコト)を祭る厳島(イツクシマ)社です。
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 五葉松です。
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 梵鐘〔千葉県指定文化財〕です。
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 元亨元(1321)年の鋳造で、寛政5(1793)年に社殿西側にあった欅(ケヤキ)が強風で倒れた際、その根元から掘り出された物です。
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 御神輿(オミコシ)です。
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 一の鳥居の少し東方の国道14号線(旧千葉街道)に面して「八幡の藪知らず」があります。
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 古くから禁足地として知られた森で、「足を踏み入れると二度と出て来られなくなる」という神隠しの伝承があり、不知八幡森(シラズヤワタノモリ)・不知森(シラズモリ)・不知藪(シラズヤブ)等の別称もあります。
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 藪の広さは奥行き・幅ともに18m程度で、江戸時代の文献でも既に現在と同程度の広さであった事が記されており、決して方向感覚を失って迷う様な広さではありません。
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 古くは細竹・漆の樹・松・杉・柏・栗の樹などが生い茂っており、昭和時代末頃までは樹齢を経た木々の鬱蒼とした様を見る事が出来たそうですが、近年は孟宗竹に侵食され、樹木は僅かに残るのみです。また、藪の中央部が窪んでいるという地形的特徴があります。
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 ここが禁足地とされた理由は謎に包まれています。 
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 この地は、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の陣屋跡だとか、平将門(タイラノマサカド)や平良将(タイタノヨシマサ;将門の父)、或いは将門の首を守り続けた末に泥人形と化した家臣の墓所だとかする説もあり、その場合、いずれも該当する人物の祟り等のために立入禁止となった事になります。
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 また、将門征伐のために陣を布いた平貞盛と藤原秀郷が乱平定後の帰京に際し、地元民に「この場所は、天地の鬼神が各方隅を循環して生殺(ショウサツ)するとの信仰に基づく八つの門のの一つである八門遁甲(ハチモントンコウ)の死門であるため、今後足を踏み入れてはならない、踏み入れた者には必ず害がある」と告げて言ったとする伝説もあります。
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 更に、中央の窪地から毒ガスが出ていたとか、底なし沼になっていたとか、死んだ動物を供養するための葛飾八幡宮の池だったとかの話もあります。
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 何れにせよ、水戸藩主徳川光圀(トクガワミツクニ)が迷い込んで妖怪に遭遇したとの話が流布してから禁足地として有名になった様です。
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 なお、一番単純な禁足理由は、ここは近隣の行徳(ギョウトク)村の飛び地だったため、地元の八幡村の住民は立ち入りが禁止されていたとする説です。
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 入口には葛飾八幡宮境外社の不知森(シラズモリ)神社があります。
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 ひょっとしたら、ここにはマダニでもいたのかもしれませんね…。
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《続く》
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