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2019年11月07日23:42

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人を見た眼で判断する

「オーラが見える」とか、「オーラがわかる」と言う人がいて、地位や名誉のある人に独特の雰囲気であるとか、人徳が感じ取れるということのようです。私にはまったく縁のない話で、もちろん、人を威圧したがっている人とか、イライラしているくらいのことはわかるにしても、見た目(もしくは見えないオーラ)で人を判断できるなどと考えたこともないし、やろうとしてもできそうにありません。できるのは、実際に言葉を交わしたり、行動を見て判断することだけです。

私とは無縁の感性で、一瞬にしてその場の力関係、人間関係を把握して、適切に立ち回れる人がいることも確かで、誰もがそこまでの感性は持ち合わせていないにしても、私ほどその把握が遅かったり、結局わからなかったり、と言う人はあまりいないようです。まあ、大まかには上手に立ち回る人でも、その感性ゆえに間違ったり、感性だからこそ間違ったときに修正が効かずに私のほうがマシな対応ができたということもないわけではありません。やり直しがきかないときには修正が効こうが効くまいが何の意味もありませんが、やり直しができるのであれば判断に適切な修正を加えることができるというのは大きなメリットになります。

論理とは、もともと修正を可能にするための構造であり、多くの人が「融通が利かない」と考えているのは根本的に間違っています。「融通が利かない」ように見えるのは、修正を加えなければいつでも結果が変わらないからで、感性のように修正を加えたつもりでも変わったかどうかすら判断できないようでは、適切に修正を加えることができず、逆に、変更しなければ変わらないからこそ、修正をすれば、その修正に対応した新しい正解がいつでも得られるのです。

臨機応変がその時その時で変わる、と言う意味であれば、論理は臨機応変ではありません。しかし、「機」に応じて「適切に」変わるということであれば、一般に言われる「人間の感性」よりは論理のほうが臨機応変と呼ぶにふさわしいと言えます。
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