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2019年08月14日10:44

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『まちまち』を終えて その3(ワークショップの危険性について)

今回で『まちまち』体験を通じて思ったことは終わり。最後に、WSや作品の内容とは直接関係なく気になったことがあるので、それについて書き残しておく。少し長いが、集団制作の芸術に関わる人には読んで欲しい文章である。
 
公演終了後は当然打ち上げ。その後半で、各人がこの企画に参加した感想を述べていくことになったのだが、最初に「一言ずつ」と言われたのに、初っ端から一言で済ませる参加者など一人もおらず、皆様々な思いを、熱く、長く語っていく。
そして途中から涙を溢れさせ言葉につまる人が出てくる。いかにもな人はいたが、「え?ウソ!?あなたがそこで泣く?あなた そういうキャラだっけ?」と驚くような人まで泣く。もちろん泣こうが笑おうが個人の自由であり、それ自体を批判する気は微塵も無い。ただ、以前から私の周りでは、このような演劇WSが持つ危険性について語る声があったので、心の中に少し暗い影がさしたことは事実だ。
 
WSによって、普段 表現活動をしない人に表現の場を与える。それが結果的に、何らかの問題を抱える人々の心を解放し、コミュニティとの繋がりを築くことができる…実に良いことである。
しかしそれは一歩間違うと(あるいはほんのちょっとした恣意的運用によって)容易に「マインドコントロール」につながる。その危険性は、この種のプロジェクトに関わる全ての人間が自覚しておくべきだ。
 
 
くれぐれも誤解なきように言っておくが、今回の『まちまち』において、そのような危険性が特別にあったわけでは全くない。そのような危険性を排除するために瀬戸山さんや白川さんは非常に注意深く立ち回り、むしろお手本と言っていいほど健全なWS運営だったと思う。 
問題は「そこまで健全に運営されたWSにおいてさえ、わずかながらにその手の現象が起きる」ということ。つまり「ここにほんのちょっと恣意的な運用を加えたら、参加者をマインドコントロールすることは確かに容易であろう」と思わせたことだ。そこからさらに押し進めて「そもそも人間は(特に生き方に悩む人ほど)、進んでマインドコントロールされたがる生き物なのではないか?」という疑念も湧き起こった。
 
 
そもそも「感動」と「マインドコントロール」は常に紙一重だ。エベレストの向こうに沈む夕日を見て感動するような美学的なものは別だが、もっと人間的なもの、ほとんどの物語芸術にはそういう要素があり、「感動」と「マインドコントロール」の間に果てしなく広いグレーゾーンが広がっている。「感動」とは、強く心を動かされ、世界や自分自身に対する見方がそれまでとは変わってしまうことだ。特定の作者が存在する芸術であれば、作品を通じてある思想や価値観が伝えられるのは当然で、そこからマインドコントロールの要素を完全に取り除くことは不可能。完全に取り除かれたところには、感動も存在しない。
 
だからこそ芸術の作者には、他者(観客や読者)の人格を尊重し、その思想を過度に支配しようとはしない倫理観が求められる。そして芸術を享受する側には、自分の感動したものが「数多い価値観や世界観の1つ」であることを自覚し、それを絶対視し過ぎない冷静さが求められる。
 
 
しかし慣れたプロならともかく、我々素人にとって、1つの演劇作品を作り上げ舞台に立つまでの体験はあまりにも濃密で刺激的だ。そこに至るまでの座組としての一体感などは普段の生活ではちょっと味わえないもので、何だかんだで身も心も支配される(私は今も熱病のように「たまのまちまち」の歌が勝手に脳内リフレインされる)。特に人生経験の浅い若者たちが、その体験の強烈さに支配され、まるで肉親を失うかのごとく泣いてしまうのもよく理解できる。
 
もう一度繰り返すが、今回はそれでいい。運営には何の問題もない健全なWSだった。しかし、その健全極まりないWSでさえ、参加者の精神状態を非常に危なっかしいものにしてしまうという事実が一方にある。
だから別のWSや演劇活動において、何らかの利己的な意志を持つ主催者が、巧妙な形でWSのシステムを利用すれば、参加者をマインドコントロールし、カルト的な方向に持って行くことさえ可能だろう。今回の健全極まりないWSに対する喪失感を埋めるため、別の演劇活動やWSに参加する若者もいるかもしれないが、そこに思わぬ悪意が潜んでいないという確証は無い。
 
 
観客を含む幾人かの人から、「(出演者が)こんなにも個人的なことを舞台上で語ってしまうことに驚いた」という声を聞いた。私が思うに、やはりどうあがいてもこの手のWS、ましてや「個人の思いを大切にしたい」と言われた時点で、そのような方向に向かうのは必然だったと思う。そういう点では、確かに瀬戸山さんもかなり危ない方向に舵を切ったわけだが、創作者が自らの内面を隠したまま人を感動させる作品を作ることは困難なので、仕方ないことだろう。その色彩が特に強いのは、「わたしの大切なもの」というモノローグだと思う。あれなど、確かにドキッとするほど個人的な内容が多かったが、全て参加者が自分で進んで語ったものであり、我々も瀬戸山さんも「え?そこまで語るの?」と驚いていたほどだ。つまり少なからぬ人が「自分の最もパーソナルな話を聞いて欲しい」という思いを持っているのだ。
突っ込んだ話をすると、やはり何人かの人には「贖罪」の想い、それを話すことで「赦し」を得たいという気持ちが確実にあったように思う。それは健全な精神の働きだし、それで心が浄化されるなら何も問題ない。ただそういう状況で無防備になった人の心を、悪意ある人物が操作しようとしたり(ex.カルト)、周りの人がその受け止め方を間違えて精神的依存のようなものを引き起こすと、危険なことになる。実際私が最後の振り返りに、若干の危うさを感じたのも、それがまるでグループセラピーのように見える瞬間があったからだ。
  
 
世田パブの「地域の物語」WSは、ここ数年「生と性」をテーマにしていた。私自身は、そのテーマになってから一度も参加していないのだが、おそらくそこでは桁違いにパーソナルな話し合いが行われているはずだ。観客としては参加しているし、出演者と多少の交流もあるのだが、たとえば会社などでは自分の同性愛を一切隠している人がWSでそのことを公に語る(一応ダイレクトにつながらないような若干の工夫はされているが)。そこにはやはり「本当の自分を語りたい」という強い思いがあるのだろう。ある意味、「本当の自分を隠して生きている自分自身に対する贖罪」なのだと思う。
このようなWSが、『まちまち』とは比べものにならないほど危険な要素をはらんでいることは疑うまでもない。だからこそ、アフタートークの中でファシリテーターも「演劇WSはセラピーではない」と明言し、出演者にも参加者にもその点で誤解が起きないようにしていた。演劇WSという形では決して踏み込んでいけない領域がある。それを踏み越えると、さっきも述べたように、カルト的な方向に行ったり、セラピーの患者がセラピストに強い依存をしたりするのに似た現象が起きる。私が最も危惧することだ。
  
 
そもそも演劇に興味を抱くような人間は、何らかの形で世界に対して違和感を抱き、その生きづらさに対する救いを求めている人が多い。素人の場合、はじめて参加する演劇WSは、そのような救いと親和性が高いため、つい見誤りがちだが、演劇は宗教でもセラピーでも自己啓発セミナーでもない。そこで救いを得られたとしても、救いとは演劇体験を通じて変化した自分自身の中にあるもので、主催者やファシリテーターという外的存在の中にあるわけではない。それを誤解すると、セラピストに依存したり恋愛感情を抱いたりする患者のようなまずい状況に陥る。
精神医学の場合、そういう事態が起きないように(数々の失敗例を踏まえ)かなり厳密な指針が作られているはずだし、それに抵触した医師やセラピストには免許剥奪などの措置が取られるはずだ。しかし演劇WSはそこまで厳密な指針がないため、主催者やファシリテーター個人の倫理観や技術に頼る部分が大きい。それだけに好ましくない状況が発生する危険性も高いのは事実だ。 
 
たとえば平田オリザなどは、WSが持つ危険性を非常に強く意識し、厳密な指針に近いものを運用しているようだ。だだ(個人的な親交は無いが)私の目からすると、平田自身はむしろカルトの教祖的な要素を誰よりも備えている人物に映る。もし彼がWSの方法論を恣意的に利用したら、恐ろしいことになるだろう。本人もそれを自覚しているからこそ、そういうことに人一倍厳密なのだと思う。それは今のところ多分うまくいっている。
だが…私もこの歳まで生きてくると、かつては高潔だった人物が、どういう理由でか非常に独善的で頑迷な性格に変貌する姿を何度か見ている。男性の場合、それは50〜60代で起きる場合が多い。平田ほど頭の良い人物なら、そんな分かりやすい変貌など一切見せず、誰も気づかぬうちにいつの間にか本質をすり替えてしまうなど容易いことだろう。だから私は、今 大きな変化の過程にある平田の姿を、健全な疑いの視点を忘れないようにしながら見ているつもりだ。
 
 
別に結論は無い。ただ、WSの主催者やファシリテーターには、自分たちが踏み込んではいけない部分に参加者を決して誘導しない倫理観とファシリテート技術を求める。そして参加者には、演劇WSは宗教でもセラピーでもないという認識、そこで得られた感動や一体感を何かへの依存という形にしない冷静さを持つことを求める。そんなところだ。
 
 
 
そう言えば今回の企画で1つ大きな不満がある。それはアフタートークの出席者が(出演者では)3人だけで30分しかなかったことだ。最近の世田谷パブリックシアター「地域の物語」WSではアフタートークが1時間以上もあり、出演者全員が舞台上にいる。主催者が、企画の趣旨や創作過程を一通り説明した後は、観客とのQ&Aになり、投げかけられた質問に対して、答えたい参加者やファシリテーターが発言し意見を交わしていく形だ。つまり「トーク」ではなく「ディスカッション」に近い。一度でも参加すれば分かることだが、この時間が、異常なまでに熱く、密度が濃い。そのやり取りを通じて、上演された作品についての認識が観客と参加者の間で深まること深まること… はっきり言って上演そのものはあくまでも半分。アフタートークならぬアフターディスカッションまで参加して、より巨大な作品が完成するという形だ。それを一度でも体験してしまうと、数人が舞台にのぼって当たり障りのない話をし、最後にわずかな質問を受けつける「アフタートーク」はいかにも予定調和であり、作品の価値を大きく広げる方向には働かない。
また、この話題を最後に持ってきたのは、あのトークならぬディスカッションが、参加者にとって「自分たちは今日 舞台上で何を表現したのか。それは他者の目にどう映ったのか」を冷静に確認する絶好の機会になっていると思うからだ。それは別の言葉で言えば、舞台の熱狂からの健康的なクールダウンにもなっている。つまり自分たちの舞台を観客という他者の視点によって相対化することで、同じ仲間との間に渦巻く熱狂を良い方向に鎮めることができるのだ(もちろんそううまくいかない場合もあると思うが)。
そんなわけで、またこのような企画があるのなら、次は「地域の物語」方式のガッツリした「アフターディスカッション」を期待したい。念のため言っておくと、「地域の物語」も私が参加した6年前はそんな方式ではなく、普通のアフタートークだった。近年あれがデフォルトになっているのは、「生と性」というあまりにパーソナルなテーマを扱っていたため、そのような場を設けないと参加者が熱暴走を起こすことを、主催者が(意識的にであれ無意識的にであれ)察知したためではないかと思う。
 
 
そもそも…私のように歳だけは食い、何度かWSに参加経験があって、それを客観的に眺めることが可能なオッさんでさえ、このような長文を3つも書き連ねることで自分の中に溜まった「熱」を吐き出しクールダウンしていく必要があるのだ。こういうクールダウンの術を知らない、あるいはまだ人生経験が浅く私以上にWSの熱気を体内に抱え込んでしまった子たちは今どうしているのか、若干の心配も覚える。 
 
良くも悪くも、素人にとって、演劇WSに参加して1つの作品を作り上げるというのは、それほどまでに濃密な体験なのだ。主催者やファシリテーターには、その重大さと裏返しとしての危険性を、くれぐれも理解しておいて欲しいと思う。
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