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2019年07月01日11:08

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講演会「村山槐多  天才の秘密」

村松氏の講演会は、6月23に行われたのだが、103年前の6月22日に村山槐多が
岡崎に帰郷していた。
そこで1泊したので、6月23日にも岡崎にいた。

村松氏は そのことを記念日のように話した。

徴兵検査の為の帰郷だった。村山槐多は その直前に大失恋して、350キロの道のりを
東京から歩いてきた。

ちなみに、このおかざき世界子ども美術博物館は、昭和60年5月に日本初の子供の為の施設として建てられた。子供たちに観てもらう展覧会を催している。

以前のダリの版画展も 村松氏が手掛けたものであったが、今回の村山槐多の展覧会が 「新日曜美術館」で 取り上げられたのには 驚いた私だった。

あの「新日曜美術館」の番組を観て、この岡崎まで展覧会を観に来る人たちがどれだけいるのだろう?

駅から遠く、またバスも 通っていない場所なので、来るのは大変だと思う。

車で来る人は、駐車場は広いので、良いかな。

村山槐多は、パリのエッフェル塔が作られた頃に生まれた。

村山槐多の従兄弟の山本鼎が、一番初めに村山槐多の才能に気が付いた人であった。

山本鼎は、岡崎生まれの人で、版画家。創作版画を作った。フランス留学した。
版画の啓蒙や、児童自由画・農民美術の提唱をした。
創作版画協会や農民美術練習所をつくった。
そんな人が14歳の槐多の絵を見て、「画家になりなさい。」と言って、油絵の画材一式を手渡した。

村山槐多の出生届が岡崎に出ている。
槐多の父は、横浜で 先生をしていた。森鴎外の弟を教えていた。
槐多の母の実家は漢方医だったが、没落して、 森鴎外の家で女中をしていた。
槐多の父と母の年かっこうが丁度良いというので、二人は結婚。
森鴎外が二人の仲人をした。

槐多の母の姉が岡崎の石材店に嫁いでいて、そこで槐多の母が槐多を生んだ。
そのことを村松氏は、石材店の人に確認した。

1911年に槐多は 初めて油絵を描いた。色の使い方が素晴らしかった。
4歳から18歳まで槐多は京都で過ごした。

中学時代の槐多が 京都の寺のスケッチをたくさんしていた。
特に 竜安寺の石庭のスケッチを何度もしていて、今回の展覧会でも それが出品されていたが、とても画力があると思った。




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