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2019年05月29日23:26

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【映画】『ゴッドファーザー』映画史の分水嶺となった現代の叙事詩

『ゴッドファーザー』
 
午前十時の映画祭で久しぶりに鑑賞。劇場はシアタス調布のULTIRAスクリーンなので、上映環境としては過去最高だった。あのスクリーンは、大きさやクリアさもさることながら、座席と画面の位置関係が素晴らしく、何を見ても映画の世界に没入できる。
 
最初に言っておくが、私はこの作品をそこまで完璧な名作だとは思っていない。にも関わらず、長い人生の中、劇場やテレビで何度も繰り返し見ている。昔WOWOWでやった『ゴッドファーザー・サーガ』(1作目と2作目を時系列に沿って再編集したもの)までちゃんと見ている。どうやら私は、映画としての実際の出来以上に、この作品に愛着を持っているようだ。
 
今回見ても、フランシス・フォード・コッポラの演出はやはりそこまで凄いものだとは思えなかった。絵作りも編集もしばしば凡庸さを感じさせる瞬間がある。私は昔からコッポラを「キューブリックになろうとしてなりきれなかった男」と表現してきたが、完璧な映画を目指しながら決して完璧になりきれない姿には、一抹の哀愁すら感じる(この傾向は『地獄の黙示録』でより顕著になる)。
  
しかし今回見て大きく再評価したのは脚本の出来映えだ。コッポラは、元々監督ではなく脚本家として大成することを夢見ていた人物。インタビューなどをみても、文学的な志向が強いことが分かる。それをネガティヴに捉えると「映画的な純度が低い」となるが、ポジティヴに捉えれば「豊かな物語性を持った作家」ということになる。
本作はとにかく構成が素晴らしい。原作は読んでいないので、どこまでが原作由来で、どこからが映画ならではの脚色か分からないが、ヴィトーの家父長的制度に基づくファミリーが崩壊し、マイケルの冷酷で近代的なビジネス組織が誕生していく流れは、現代の叙事詩として完璧だ。舞台がシシリアに移る絶妙なタイミングには、思わず声を上げたくなる。
 
そして先日見た桟敷童子の芝居をきっかけに、思いがけず『ゴッドファーザー』と『カラマーゾフの兄弟』の類似性に気づいたため、その辺も念頭に置いて見たのだが、これは間違い無い。明らかに本作の人物設定は『カラマーゾフの兄弟』がベースにある。
父親のキャラは全く違うが、三兄弟に影響を与える巨大な存在であり、途中で死ぬところなどはよく似ている。長男ソニーの直情的なキャラは、誰が見てもドミートリイだ。
興味深いのは三男のマイケルで、彼は最初は無垢なアリョーシャとして登場しながら、後半は理知的で神に背を向けるイヴァンとなる。その点に着目していくと、本当に面白い。甥の洗礼式と敵対者たちの暗殺がカットバックで描かれる有名なシーンは、現実の耐え難い残酷さ故に「神に天国入りの切符を返上する」と言ったイヴァンの映画的表現そのものではないのか。
もちろんこの映画やマイケルの変貌に『カラマーゾフの兄弟』ほどの深い思想性は無い。全体としては、ドストエフスキーのような近代的心理小説ではなく、もっと物語重視の古典的叙事詩に近い。それに満足できなかったコッポラが、マイケルの罪と罰を、より深く思索的に描くために作ったのがPart IIだったのではなかろうか。
 
そのように素晴らしい脚本だが、実は1つだけ大きな欠点がある。それは次男フレドの影の薄さ。「主体性の無い小心者」というだけの書き割りキャラで、マイケルはもちろん、ソニーの描き方と比べてもバランスが悪すぎる。実はもっと描かれていたのだが、上映時間の関係でカットされたのではと疑うほどだ。おそらくコッポラは、その部分の補足もPart IIで目指したのではないか。そちらを引っくるめてもなおキャラの掘り下げが弱いが、本作だけで終わっていたら「フレドなんていたっけ?」レベルなので、Part IIがあったおかげで何とか面目を保ったと言える。
 
そして見れば見るほど、この作品の主役はマイケルであることが分かる。Part IIやIIIはもちろんだが、1作目だけでも、それは明らかだ。だからヴィトー役のマーロン・ブランドがアカデミー主演男優賞を受賞し、しかもそれを辞退して話題になったことは、本作に対する誤解を招く結果になっている。実際には、ブランドは助演でアル・パチーノこそ主演だ。
ストーリー上の重要性のみならず、本作におけるパチーノの演技は圧倒的に光り輝いている。知的で裏社会のビジネスを嫌っていた若者が、後半むしろその知性を生かして冷酷な虐殺を行い、友情や血縁で結ばれていたファミリーを冷徹な組織へと変貌させていく。その冷たさと知性と悲しみに満ちた瞳は、見ていてクラクラするほど魅力的だ。本作から『狼たちの午後』までのアル・パチーノは真に神ががっている。
 
他にとても興味深かったのは、音楽の使い方だ。本作の音楽はほとんどが甘美で哀愁に満ちたもので、いかにもサスペンスフルなものはほぼ皆無。残酷な殺戮シーンにも甘美な音楽が流れる(または全く流れない)。そして昔はこういう音楽の使い方が賞賛されたものだった。少年時代に読んだ映画の本にも「映画音楽は画面と対立的に使うべきであり、楽しい場面には楽しい音楽を、悲しい場面には悲しい音楽を当てて、画面を説明するかのような演出はダサい」といったことが書かれていた。当時はそういう価値観が圧倒的だったのだ。しかし今 本作を見ると、対立的な音楽のしつこいまでの使い方には少し違和感を覚える。この半世紀近くの間に、映画音楽のあり方がかなり変わったことを思い知らされた。
そしてAmazonのBlu-rayの評を見たら「話の内容と流れる音楽が合わなすぎ」という意見があって苦笑した。なるほど、最近の映画しか見ていない人にとっては、昔は芸術的に高度なものとされていた対立的な音楽の使い方は、単に「画面と合っていない」と思われてしまうわけか。
これはどういうことかと言うと、おそらく近年は映画音楽の作曲がより巧みになり、「基本的には画面と同じノリだが、単なる画面の説明に堕すことなく、画面の描写を補強し引き立てる絶妙の曲調」を作るノウハウがこの数十年で確立されたのだと思う。逆に言えば、そういう音楽が劇伴の主流になったからこそ、昔のように単独でヒット曲となる映画音楽(美しい=主張の強いメロディをもった曲)がなくなったのではないかとも考えられる。
 
 
もう一度まとめるなら、本作におけるコッポラの演出はそこまで評価すべきものではない。だが脚本と演技は圧倒的に素晴らしく、全体的に見ればやはり映画史に残る傑作の1本であることは間違い無い。
 
それにしても、刺激的な暴力シーンはあるが派手なスペクタクルやユーモアに乏しく、暗い部屋で男たちがあれこれ喋っているシーンが主な印象として残る…そんな3時間近い人間ドラマが、当時アメリカでは歴代の興行記録を塗り替えるヒットになったのだから隔世の感がある。
その『ゴッドファーザー』の記録を破ったのが、先日久しぶりに見たスピルバーグの『ジョーズ』。それを破ったのが『スター・ウォーズ』。その次が『E.T.』…良くも悪くも、スピルバーグやルーカスの登場がハリウッドを永遠に変質させてしまたことに感慨を新たにする。やはり1970年代が、アメリカ映画の歴史の大きな転換点だったことは間違い無い。
 
そう、だからこういう言い方もできるだろう。全米の歴代興収ナンバーワンとなった作品で、本作は「いわゆるVFXを使っていない最後の作品」なのだ。
 
私が本作を愛するのは、そんな時代に対する郷愁ゆえなのかもしれない。

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