mixiユーザー(id:4209164)

2019年05月07日00:15

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遍在してゆく視点。

目撃していくとき
常に 1つの視野からでした。


悟りも、1つの知性から
切り取られた一面を
表しているに過ぎない表現が
多々あるのかもしれません。


禅は、空間的側面から
切り取っているのかもしれません。

最後まで行けば
別かもしれませんが。




遍在してゆく視点の中で
なぜ、慈悲が理解されるのか?

というのが
今日の課題なのかもしれません。



知性は、すべてが無である とか
無を認識することのない
絶対無へと至るのである とか

そういった枠組みに
自己満悦し、
結局のところ

すべてが幻想だ とか
私以外いない
私の表現である とか


そういった、
表面的な自己満足で
遊んでいます。



そこには、
生命の相互作用や

より深い無の理解が
ありません。


そのために、
ブッダによる縁起の話が
出てきたのかもしれません。


男性脳で理解される
空に対しての学問的な研究は、
結局は、虚構に行き当たるのかも
しれません。


それは、結局は、
あらゆる生命の奥深くをも
貫く部分には進めず、

一個の頭の中という
テリトリーで命を終わらせて
しまいます。



そこには、
そこを越えた

枠を越えた部分を
推し量り、
触れる 裁量がありません。



遍在してゆく視点の中で
目撃される

森羅万象における
互いの静かな理解は、

その神秘の座を
知性にあけ渡さず

凛として保持したままです



すべての命として
空間、時間、物質
あらゆるものとして

目を開けるときの実在は、


知性における
無、絶対無の理解を
越えてゆき


その枠の外の
外に貫通&浸透していきます


慈悲は、当然のこととして
理解され、また一つになります。


視点は、一つに
なった後も

その理解を保持したままです




越えている

というのは、

潜んでいる

ということで


越えている

というのは、



越えている



越えています







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