mixiユーザー(id:4209164)

2019年04月24日12:33

83 view

空海と密教。(道の応用)

フォト

一切経。

不空の話が載ってるから、
読んでみた。
表紙とぜんぜん違い、
現代ぽくて読みやすい。

アマゾンだと

ありえない値段で出てるけど、


普通に
東京の八重洲ブックセンターとかで売ってる。

空海の師の師の話。


  
面白かった。




やっぱし
密教の難解なところは、
空(くう)に向かうための話と、
ごっちゃになるところだと思う。
  
一切空(いっさいがくう)の
話で持って行くなら、


禅の理解や

顕教(言葉にできる教え)
が伝わりやすいけど、
  
密教は、

空に向かうための話というか、
応用だとも思える。
  
道と一体になる道ではなく、
道の応用。



おそらく、最澄に
出来なかったのは、
  
「一切空を

通り過ぎた後の話」

と、密教を見れなかったこと
かもしれない。


  
道の応用の話と、
道を求める話では
違うと思う。
  


実質的には、


道の体得に関する顕教と、
 
道の応用に関する密教の
違いがあったのかもと思う。



外向きの螺旋が、
密教には見えるように思うし、
  
より実質的な、
道の促進についての理解だけに、
わかりにくいと思う。
    


誰もがみな、
空(くう)についての
理解を話してる時に、
  
マンダラの遍在的座し
から始まる 道の促進

に関しては
ちょっとぶっ飛んでると思う。



なので、
空の理解を深めると共に、
密教的な事も深めていこう
ということに落ち着くと思う。
  
チベット仏教も、
両方やるけど、
やっぱし 顕密のバランスな理解が
必要と思う。

(いきなり密の中心だと
土台が無いようにも思う)



  
空海は、むしろ、
いきなり密教の真ん中で
いいと思う。
  
来た場所が違うと思う。



1番深いところは、
やっぱり、素地が必要で、
 
なぜなら、
本質的に、
 
空に精通してなければならないし、
それは、生命との関係性(縁起)を
含んだものの理解も含む 空で、
   

そこから、
空者ではなく、
未知者(空から離れた個人)を
再限定し、

両方の理解をもって、

空からではなく、
  
絶対的な「個」として、
生命という生命マンダラに
突っ込むわけで。


  
その立体的遍在マンダラ座し
があった上での、
 
密教のスタートがある
ように思う。
  
顕教の素養にないものが
ありそうだ と。



この立体的遍在マンダラ座し 
についての理解の素養があったのが
おそらく空海であり、
 
例えていうのなら、
  

そういう故郷、
そういう領域から来た
っていう方が
理解しやすいと思う。

   
なので、まず
その素養を養わせる教え
が必要かもで、
 
空海には、既にその
素養があった と。


(たとえて言うのなら、
コンピュータが
ウィンドウズ20だったと。
10だと、追いつけないっていうか。)



ここは、空の理解を目指す者
という切り口で見たなら、


その「空の理解を目指す者」という
キャパシティ自体に
  
密教の理解が限定されて
しまうわけで
延長線上に見えてしまう。
  


けど、「空体得者」が
空を脇に置くほどの
何らかの理由をもって
歩を進めたのなら、



道端に咲く密教が
見えたのかもしれない




その「空の理解者」を
脇に置くほどの理解は何か?
  
といえば、慈悲に他ならない
と思う。
  
悟りに達したが、
生命が苦しんでいる
という時に

自然と湧き上がってくる慈悲が。
  


目指していた場所は、

ここじゃないと、
歩は進み出す。


(その者にとって、
たぶん何回も訪れた場所だから。)


そこにあった、
相当な覚悟が掴ませたもの。
  

それが、空海の元に
おとされた密教だった
かのように思う。


   
空の山を登る
たくさんの道がある。
  
けれど多分、
登った者が
タオに関する応用として
練り上げたもの。
  
それが、密教のように思う。



空間からの、
色の無い 
 
悟り についての
空間的理解。

そして、
天地合一としての
我 あなた ソレ 私。
  
生命への遍在的 繋がり
を共有した 個としての
立地。
  
マンダラと空の
同時な深い 味わい。
  


それが多分、
空海にとっての
密教習得の始まりに
含まれていたのかもしれない。



そしてそこから、
 
道の促進という
応用が始まった   と。


1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する