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2019年04月24日07:27

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ニッポン(の足元)をすくう(ペ)テンシ、アベ・シンゾー

ただの凡庸ならまだしも良かったのだが……。

思えば、
政治家アベシンゾーが浮上したきっかけは
金正日が日本人拉致を認めて、
5人の日本人拉致被害者の「一時帰国」を認めた時に、
官房長官時代のアベが小泉純一郎首相に
「被害者を返してはいけません」と進言した事だった。

それでアベは一躍「果断な保守政治家」として
脚光を浴びることになったのだが、
今にして思えば天性のペテン師の面目躍如で、
金正日をペテンにかけたわけだ。

なまじ凡庸な人間ならかえって
「国と国との約束を反故にするのは如何か」
などという形式論・建前論にとらわれて
一時帰国の名目で日本に戻った拉致被害者を
北朝鮮に帰らせないという事など
思いつきもしなかっただろう。

アベの特異な才能は、
事実の裏付けも建前も何もなくても
調子のいいことを出任せでペラペラ喋って
相手に妙な期待を持たせることだ。

その代わり、
言ったことに責任をとるとか、
有言実行などという発想は全然ない。

今でもまだ
「日本国憲法を改正して
軍隊を持てるようにして、
日本が自衛できる『まともな国』にしてくれるのは
安倍さんだけ」と
信じてる人がいるようだけど、
 
アベがやるやると言い続けている
憲法改正もまた空念仏に終わると
おれは思う。

改憲を発議するには機を逸した。
アベノミクスの偽りが露見し、
内政・外交ともに化けの皮がはがれてしまった。

アベに期待し続けてきた人たちは
その期待が虚しかったと覚った時、
こう言って悔しがることだろう…。

「安倍晋三こそ日本を救う天使かと思ったら、
 結局は口先ばっかりで、
 日本の足元をすくうペテン師だった。
 まったくとんだ『食わせ者』だ!」と。

――――――
■「悲しいまでに凡庸」だった青年が
日本政治の頂点に君臨し、
この国の姿を変容させるまで 
安倍晋三氏のルーツを探る


「安倍寛(あべかん)」という政治家をご存じだろうか。庶民目線の政治家として、道理を外した権力の専横にあらがい、戦時中に反戦を唱え、没後70年を経たいまも地元の人々に慕われ続けるこの人物こそ、安倍晋三首相の父方の祖父である。その志を継ぎ、リベラル保守の政治家として外相も務めたのが、息子の安倍晋太郎。優れたバランス感覚をもち、「オレのオヤジは大したやつで」が口癖だった晋太郎は、終生、寛の息子であることを誇りにしていた。

 安倍首相は子供のころ、「晋太郎の息子」ではなく、「岸の孫」と自己紹介していたそうだが、母方の祖父・岸信介への敬愛の念をあらわにする一方、岸と同じく国会議員であった安倍寛については、ほとんど触れることがない。

 語られることなき、安倍首相の父方の系譜をたどるルポルタージュ『安倍三代』(青木理著)がこの春、文庫化された。著者が丹念に周辺取材を重ねるなかで浮かびあがってきたものとは――。本書に寄せられた中島岳志(東京工業大学教授)の解説を公開したい。

*  *  *
 安倍晋三という政治家の特徴は、その右派イデオロギーにある。これまで度々、右派論壇に登場し、断罪口調の左翼批判や偏った歴史認識を展開してきた。第2次政権発足から1年後の2013年12月26日には、靖国神社を参拝し、「内閣総理大臣 安倍晋三」の名前で献花した。2015年2月19日の衆議院予算委員会では、民主党議員が質問している最中に、唐突に「日教組どうするの!」などと野次を飛ばし、批判を受けた。

 首相になっても露呈する右派イデオロギー。彼はいつから、このような思想を抱くようになったのか。そのきっかけや原因は何だったのか。

 実は、この問いに対して正確に答えることは難しい。国会議員になる前の発言や思想信条は、ほとんど文章として残っておらず、どのような考えを持っていたのかが判然としないのだ。

 本書はこの謎に、父子関係の問題から迫る。

 父・安倍晋太郎は、言わずと知れた自民党重鎮の政治家で、保守でありながらリベラルな姿勢を貫いた。その政治姿勢は地元の在日コリアンにも受け入れられ、幅広い信頼と共感を獲得した。著者の青木曰く、晋太郎には「息子・晋三とは明らかに異なる『異端者=マイノリティー』への配慮の眼差し」があり、「決して極端に偏らない政治的なバランス感覚」や「狭量や独善に陥らない懐の深さ」があった。

 平和憲法についても擁護する姿勢を示していた。晋太郎を慕って中央政界入りした武村正義は、「基本的にリベラルな方」で「正真正銘のハト派だった」と述べている。

 一方、政治活動に忙殺されていた晋太郎は、家を空けることが多く、子供との関わりが少なかった。1954年に次男として生まれた晋三は、「物心ついてから父に遊んでもらったという記憶がほとんどない」と回想している。小学校から大学まで成蹊学園に通った晋三は、家の近所に同世代の友人がほとんどおらず、兄や家庭教師、乳母役の女性と遊ぶことが多かった。

 そんな晋三を溺愛したのが、母方の祖父・岸信介だった。岸は戦前期に満州経営の最前線で活躍した官僚で、1941年東条英機内閣では商工大臣となった。戦後、A級戦犯容疑で逮捕されたが不起訴となり、政界に復帰。1957年に首相となると、反共の立場を鮮明にし、憲法改正の立場をとったが、1960年日米安全保障条約改定を強行して退陣した。

<強運と老獪(ろうかい)さでA級戦犯としての訴追を免れて権力の頂点にのぼりつめ、猛烈な批判を受けながらも日米安保条約を改定に導いた“昭和の妖怪”。しかし、息抜きに赴いた温泉宿や別荘ではひたすら孫に愛情を注ぎこむ優しい祖父だった。世間では極悪人かのように指弾されているが、本当はそんな人じゃないんだ――そう考えて岸を攻撃する者たちへの反発を幼心に刻んだとしても不思議ではなく、これがやはり晋三の原点といえば原点なのであろう。>

 ここで一人の人物の不在に気づかされる。もう一人の祖父・安倍寛(晋太郎の父)である。晋三は岸について繰り返し語っているものの「寛についてほとんど語ろうとしない」。一体なぜか。

 寛は戦前・戦中に衆議院議員を務めた。平和主義者で反戦を貫き、東条内閣の方針に真っ向から刃向った。庶民目線で「富の偏在」に憤り、権力の専横に全力で抗う反骨者として地元から敬慕された。1942年の総選挙では、大政翼賛会に抗い、翼賛会の非推薦で出馬。特高警察などの厳しい弾圧と監視を受けながら、当選を勝ち取った。

 しかし、戦後すぐに51歳で病死する。そのあとを継いだのが息子の晋太郎だ。

 戦中、晋太郎は徴兵され海軍に入隊した。そこで「特攻」を志願し、死を覚悟する。1945年春、父親と面会すると、病床の寛は言った。「この戦争は負けるだろう。だが、敗戦後の日本が心配だ。若い力がどうしても必要になる。無駄な死に方はするな」。

 晋太郎は、命を落とすことなく、戦後を生きることとなった。毎日新聞社に入社し、岸信介の娘・洋子と結婚。1958年に衆議院議員となった。

 晋太郎がよく口にする言葉があった。「オレは岸信介の女婿じゃない。安倍寛の息子なんだ」。これは口癖のように、繰り返し語られたという。晋太郎は、戦争に反対した父を誇りにしていた。

 晋三が生まれた時には、すでに祖父・寛はこの世にいなかった。そして、父・晋太郎は家にほとんどいない。晋三を可愛がったのは母・洋子と祖父・岸信介。シンパシーは、必然的に母方の家系に傾斜していった。

 晋三は目立たない子どもだった。凡庸な「いい子」で、これといったエピソードが皆無に近い。「特に感性が研ぎ澄まされ、よかれ悪しかれ既存秩序への懐疑や反発なども強まる少年期から青年期にかけての逸話が、晋三にはほとんどない」。

 青木は、成蹊学園での同級生や先輩・後輩、教師らを訪ねて歩く。しかし、「返ってきた答えは判で押したように同じようなものばかりだった」。勉強ができたという印象もない。スポーツが際立っていたという印象もない。特別な印象が残っておらず、首相になる器とは思えなかった。関係者はそう口を揃える。

 高校・大学時代の関係者にも取材をするが、やはりほとんどの人の印象に残っていない。どこを調べても若き日に自らの意志によって政治意識を育んだ形跡は見られない。ましてや現在のような政治スタンスは見られない。せいぜい垣間見えるのは、祖父・岸信介への敬慕のみ。「人間としての本質が空疎、空虚なものなのではないかという疑いすら生じさせる」。

 晋三は「政略」的に神戸製鋼所に入社し、無難に仕事をこなしていたが、兄が政界入りを拒んだため、晋三が父の秘書を務めることになった。

 青木は神戸製鋼所時代の上司に取材する。当時の晋三について、「右派的な雰囲気」があったかを尋ねると、次のように答えている。

<「ないない、まったくない。それ以前、という感じで、彼が筋金入りのライト(右派)だなんて、まったく感じませんでした。普通のいい子。あれは間違いなく後天的なものだと思います」>

 父の秘書官になった晋三は、懸命に父をサポートした。外務大臣だった父に寄り添って、海外出張にも出かけた。晋太郎は、首相目前という地位にいた。

 しかし、1991年に病死。代わって晋三が選挙区を受け継ぐことになり、1993年の総選挙に出馬した。

 この1993年は、激動の年だった。リクルート事件などによって政治改革の気運が高まる中、小選挙区制導入などに消極的な宮沢喜一首相に対して内閣不信任案が提出されると、自民党・竹下派から分裂した小沢・羽田グループ(改革フォーラム21)が賛成に回り可決。6月18日に衆議院が解散され総選挙に突入した。

 選挙の結果は自民党が過半数を大きく割り込む敗北で、8月9日に野党勢力が結集する細川内閣が成立した。その5日前には、慰安婦問題についての「河野談話」が出された。宮沢内閣の実質的な最後の仕事だった。

 総選挙は、自民党の敗北だった。自民党は野党に転じ、政権を失った。しかしこの選挙で、晋三は田中眞紀子、岸田文雄、塩崎恭久、野田聖子、山岡賢次、高市早苗らとともに、初当選を果たした。ここから晋三の右派イデオロギーへの急接近が始まる。

 本書では触れられていない部分を、以下補っておきたい。

 8月10日、細川首相は就任後はじめての記者会見を開いた。そこで、大東亜戦争について「私自身は侵略戦争であった、間違った戦争であったと認識している」と述べた。

 これに野党・自民党は反発し、8月23日に党内に「歴史・検討委員会」が設置され、10月15日、小堀桂一郎を講師とする第1回委員会が開催された。

 この委員会は、次のような「趣旨」を掲げた。

<細川首相の「侵略戦争」発言や、連立政権の「戦争責任の謝罪表明」の意図等に見る如く、戦争に対する反省の名のもとに、一方的な、自虐的な史観の横行は看過できない。われわれは、公正な史実に基づく日本人自身の歴史観の確立が緊急の課題と確信する。>(歴史・検討委員会編『大東亜戦争の総括』展転社、1995年)

 日本の歴史認識は「占領政策と左翼偏向に基づく教育」によって不当に歪められている。こんなことでは子供たちが自国の歴史に誇りを持つことができない。戦後の教育は「間違っていると言わなければならない」。「一方的に日本を断罪し、自虐的な歴史認識を押しつけるに至っては、犯罪的行為と言っても過言ではない」(「 」内は前掲書)。

 このような右派的歴史観を強調する委員会に、新人議員の安倍晋三は参加した。

 安倍晋三の歴史認識は、この野党時代に歴史・検討委員会に参加する過程で構成されていったと見ていいだろう。晋三の発言が記録されているのは、1994年4月21日に開催された第9回委員会のもので、天皇陛下が真珠湾攻撃の慰霊施設・アリゾナ記念館での献花を予定していることへの不満を述べている。そして天皇陛下の行動が、細川首相の「侵略発言」からの「一連の流れ」の中で位置づけられているのではないかと懸念を示している。彼が急速に右派的価値観に傾斜している様子がうかがえる。

 その後、1997年に中川昭一が代表を務める「日本の前途と歴史教育を考える若手議員の会」が発足し、晋三は事務局長に就任する。彼の右派的歴史認識は、決定的なものになっていった。

 本書は、安倍晋三のルーツを丹念に探り、関係者への取材を重ねることで、その思想の軽薄さを明示することに成功している。父の呪縛から解放された時、その存在に反発するようにして接近したのが右派イデオロギーだったことが明かされている。関係者の生の声が記録されている点を含め、本書の功績は大きい。

 しかし問題は、そんな「悲しいまでに凡庸」な人物が、長年にわたって日本政治の頂点に君臨し、この国の姿を変容させているという現実である。この逆説をどう解くかは、青木が世の中に投げかけた課題であろう。

 安倍晋三という政治家は、今後、様々な形で論じられ、歴史的に検証されていく。その際、本書は欠かすことのできない一冊として意味を持ち続けるに違いない。(文 /中島岳志・東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)

(AERA dot. - 04月23日 17:00)
https://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=5593366
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