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2019年04月22日01:46

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追悼 オシムさん 2022年5月

毎日新聞の記事より
特集ワイド 
木村元彦さんが見たオシムさん、信念の生涯 民族融和、ピッチで貫く
2022/5/27 福田智沙

 「イビツァ・オシムさんの生涯は、寛容と多文化へのオマージュ(敬意)そのものでした」。1日に80歳で死去した元サッカー日本代表監督のオシムさんを、「オシムの言葉」の著者である木村元彦さん(60)はこう悼んだ。故郷の旧ユーゴスラビアで紛争を経験したオシムさんは、民族や政治の壁を越え、融和を象徴する存在だったという。では、オシムさんはウクライナ侵攻をどう見ていたのだろう。

 旧ユーゴをはじめとする東欧は、ロシア、ドイツの両大国に挟まれ、第一次世界大戦ではサラエボ事件、第二次世界大戦ではドイツのポーランド侵攻と、2度の大戦のきっかけとなった地域だ。そして、今はロシアのウクライナ侵攻のさなかである。オシムさんはこの侵略行為を見て、何と言っただろうか。東欧の民族問題を長く取材してきたノンフィクションライターの木村さんは「あくまで推測ですが」と前置きし、こう語った。

 「ロシアの武力行使による侵略を当然、非難したと思います。ただ、ロシアは、ウクライナは、と国を主語にして大きなくくりで語るべきではないと言ったでしょう。ロシア人とウクライナ人の間に生まれた人や、少数民族のことにも思いをはせるべきだと発言したはずです」

 オシムさんは国を問わず、常に弱い立場の人に目を配っていたという。「ウクライナでは、成人男性が徴兵を視野に出国を禁止されている。また、ロシアにも戦地に行くことを強いられた人たちがいる。戦争に巻き込まれる人たちを強く意識していたと思います」。戦争の犠牲になるのは、多くの一般市民である。オシムさんが人生の半分以上を過ごした旧ユーゴも例外ではなかった。

 そして、木村さんは想像する。サッカーのJリーグや日本代表の監督として日本で暮らしたオシムさんならば、「私がどう思うか、ではなく、あなたたち日本人はこの戦争をどう思うか」と問いかけるだろう、と。他国の出来事であっても傍観者にならず、真剣に向き合ってほしいという思いがあっただろうというのである。

 木村さんが、オシムさんに興味を抱いたのはユーゴ紛争当時だった。

 宗教や言語が異なる六つの共和国で構成された旧ユーゴは、1991年から各共和国が分離し、崩壊が進んだ。オシムさんの母国、ボスニア・ヘルツェゴビナも92年に独立を宣言した。異なる民族の間で紛争状態となり、和平合意するまで20万人以上が犠牲となった。

 当時は民族主義が色濃く、政治家によってあおられたナショナリズムはサッカー界にも持ち込まれていたという。木村さんが取材で「ユーゴ史上最高の選手」を問えば、自民族の選手を挙げる人がほとんどだった。だが、「ユーゴ史上最高の監督」を聞くと、どの民族の人もオシムさんの名前を挙げた。

 オシムさんは41年、ボスニアの首都サラエボに生まれた。ユーゴ代表選手として64年東京オリンピックに出場したこともある。引退後は指導者となり、90年ワールドカップ(W杯)イタリア大会では監督としてユーゴ代表を8強に導いた。木村さんは「オシムが全民族にわたってリスペクトされているのを目の当たりにし、一度会ってみたくなった」と振り返る。

 その願いは、オシムさんが2003年にJリーグ・ジェフ市原(現千葉)の監督に就任するため、来日したことでかなえられた。初めて会った印象は、「すごく記者を警戒していた」ことだった。「でも、こちらが食い下がるといろいろと話を聞かせてくれた。そこには分け隔てがない。私だからということではなく、どんな記者でも対等に、公正に話をする。非常に器の大きい人だったし、社会を見る目が公正でした」

 オシムさんが記者を警戒していた理由は、取材を重ねていくと分かった。ユーゴ代表を率いた当時、各民族の記者が自民族の選手を中心にチームを編成すべきだと主張していた。「冷静に報道をすべきメディアが民族対立をあおる文脈で選手選考に介入し、それはまた国やチームを分断する方向に導いたわけです」。政治家に対しても公正さを貫き通した。ここでも自民族の選手の起用を求める圧力が政治家からあったが、屈しなかった。「スポーツを政治利用させまいとした。それは本来、独立すべきもの。ピッチ外の人がコントロールしたり、ナショナリズムの扇動に利用したりしたら、価値がおとしめられてしまう。それを非常に嫌っていた」

 ユーゴ代表は準々決勝でマラドーナ選手を擁するアルゼンチン代表を相手に、退場者を出しながらも10人で圧倒したが、PK戦の末に敗退した。記者として、思うことがある。もし、W杯で優勝していたら、ユーゴという国はどうなっていただろうか――。木村さんも同様のことを尋ねていたらしい。

 すると、仮定の話をしても仕方がないといったそぶりで、軽く笑いながらこんな話をしていたという。「多民族のユーゴ代表を率いて融和の形を示すことで、戦争を止めることができると思っていた。今思えば、まるでドン・キホーテのようだけど」。現実と物語の区別がつかなくなった小説の主人公、ドン・キホーテに自らをなぞらえるのは、その後に紛争が深刻化し、隣人までも殺し合う事態になっていったからだろう。

 「政治家が戦争を始めようとしたら、スポーツはそれを止めることはできない。スポーツの限界も希望も両方知っていた」。オシムさんは、単なる理想主義者ではない。一方、揺るがぬ信念を持ち、不可能かに思えることも実際にやってのけた。

 それは、06年にサッカー日本代表の監督に就任したが、脳梗塞(こうそく)に倒れ、1年余で日本を離れることを余儀なくされた後のこと。祖国のボスニアサッカー協会は民族間で対立し、分裂していた。オシムさんは後遺症が残っているにもかかわらず、統一に尽力する。その結果、母国の代表は14年、悲願のW杯初出場を果たした。「ナショナリズムを乗り越え、どの民族にも肩入れせずに筋を通した人物だったからこそ、サッカーという場で融和を成し遂げたのです」と木村さんは回想した。

知将の精神受け継ぎ

 木村さんは今、オシムさんが残した精神をどう受け継ぐかを考えている。

 昨年5月、W杯アジア2次予選の日本対ミャンマー戦で、ミャンマー代表選手の1人が国歌斉唱で3本指を立てて軍への抗議を示した。ミャンマーはクーデター以降、軍による市民への弾圧が続いていた。木村さんは、日本に亡命したこの選手のサポートをしてきた。「難民認定を受けた彼の受け入れを頼みにJリーグのYSCC横浜のオフィスに行ったら、入り口にオシムのポスターが貼ってあった。ここなら安心だと思ったら、その通り、クラブの代表以下みんな、すごく丁寧に受け入れてくれました。政治亡命したアスリートの支援や執筆は私が以前から取り組んでいることですが、亡くなってその意志は強くなった」

 木村さんが最後にオシムさんに会ったのは19年夏。前年にコソボサッカー協会のファディル・ボークリ会長が急死したことについて話したのを覚えている。アルバニア人のボークリ会長は、オシムさん率いるユーゴ代表選手だった人物で、当時は民族間で差別を受けていた。「民族で優劣をつけるのは、極めて愚かだ。力のある選手がみなコソボのアルバニア人だったら、ためらいなく11人全員をそろえるだろう」。監督は民族で選手を判断しなかった。

 木村さんがその時、ボークリ会長の死を「悲しいですね」と言ったところ、オシムさんは「いや、死も含めて人生の一部だろう。驚くとか悲しむという感情とは違う」と返した。

 「どう生き抜くかを亡くなるまで考え、実行していた。人生を走りきったのだと思います」

 <走りすぎて死ぬことはない。サッカーも人生も>

 懐深く、ユーモアに富む「オシム語録」の一つである。

 冷戦後の民族紛争で苦難を重ねた末、多民族からなる旧ユーゴ代表をまとめ上げ、W杯8強に押し上げた。それは、政治が成し得なかった民族対立の解消を、ピッチ上で実現したことを意味する。

 知将は、逝った。オシムさんの自宅があったオーストリアのグラーツ。かつて監督を務めたクラブ「シュトゥルム・グラーツ」のスタジアムで、追悼イベントが開かれた。映像では、スタンドを埋める人々がそろって涙を流している。「政治難民として母国を出たオシムがグラーツを選んだのは、故郷サラエボに近いというそれだけの理由でしたが、たった8年だけクラブチームの指揮を執った外国人のサッカー監督があれだけ市民に慕われていた」。木村さんは改めて、その言葉をつなぎたいと思ったという。【福田智沙】


 ■人物略歴
木村元彦(きむら・ゆきひこ)さん
 1962年、愛知県生まれ。中央大卒。「オシムの言葉」で2005年度ミズノスポーツライター賞最優秀賞、40万部のベストセラーに。著書に「悪者見参」「終わらぬ民族浄化」「13坪の本屋の奇跡」など。
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