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2019年03月19日15:38

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「インテグラル・ヨーガ」より


最近、小生、生きている間にできるだけ人類に残された名著を読みたいという気持ちになり、
「バガヴァッド・ギーター」に取り組もうと決心しました。「バガヴァッド・ギーター」はインドの聖典で、無私の行為をすることを人生における最高の目的とし、その境地に達する道を説いています。このギーターはインドが世界に誇る珠玉の聖典であり、古来宗派を超えて愛誦されてきました。表題は「神の歌」の意で、インドにおいて、2500年も脈々と受けつがれてきました。

そして、人類史上、愛において最も秀れた人はイエス。最高の人格者はブッダ。そして最上の智慧の書はギータ―」といわれ、聖書に次いで世界で2番目の発行部数を持つ書といわれます。

そのギータ―を読むための入門書として、最近、スワミ・サッチダーナンダ「インテグラル・ヨーガ・・・パタンジャリのヨーガ・スートラ」を勉強し始めました。以下は、その本の中にある文章です。

        ・・・・・  ・・・・・

心が私的な利害から自由であるとき、われわれは仕事を十全にすることができ、楽しく感ずる。そのとき、われわれの人生は意味に満ちたものとなる。もしわれわれの心から利己性がなくなり、すべての人々の人生に犠牲的献身が備わったならば、他ならぬこの世が天国となり、平安と至福の住みかとなる。犠牲的献身は、生の掟なのだ。だからわれわれは、その生を人類に捧げ与えた人々を褒め讃え、あこがれるのである。なぜわれわれはイエス・キリストと十字架を崇拝するのか? “犠牲的献身”がその十字架の身だからだ。彼は自分自身を犠牲とした――われわれはその本質を崇拝する。われわれが尊ぶのは一片の木塊ではなく、それが表現している犠牲的献身である。彼は人類のために自らの命そのものを与えた。あらゆる予言者や聖者、賢者たちが、神なる存在あるいは神そのものとして崇敬されるのは、そうした犠牲的献身のゆえである――。

それは聖者だけではなく、自然のすべて――木々も鳥も動物たちも、すべてが他のもののために生きている。なぜ、ろうそくは燃えて溶けていくのか? 光を与えるためである。なぜ香は燃えて灰になるのか? 香りを与えるためである。なぜ樹木は伸びるのか? 果実と花を与えるためである・・・。およそこの世界に、生物・無生物を問わず、自分だけのために生きているものなどあるだろうか? ない。ならば、自然のすべてが犠牲だというのに、ひとり人間だけが利己的な生を送ってよいものだろうか? われわれは、与え、与え、かつ与えるために、ここに在る。われわれに与えられてしかるべきもの――それは、われわれが思い煩うまでもなく、与えられるべくして、与えられるのだ。

そうは言っても、もちろん迷いは残るだろう。「犠牲的献身の人生を送るべきだというならば、わたしはどうやって食べていけばいいのだ? どうやって衣服を得、住むところを得たらいいのだ――?」。

それらのものは、他者に奉仕するための自分自身の備えとして持てばよいのである。あなたには、また明日の朝も元気で他者への奉仕に出かけられるように、ゆっくり休むためのベッドが要る。他者に奉仕するための十分なエネルギーを得るためには、食べねばならない。そのように、何をするときでも、「私は他者に奉仕するために
自分自身を整えているのだ」という思いでもってやる。瞑想するときでも、それは自分だけの平安のためではない、安らかな心で外に出て、十分奉仕できるように、するのだ。他でもないそのことを念じながら、瞑想をする。そうだ、そのときにはヨーガの瞑想さえもが無私の行為となる。そしてそれが、“神に対してさえ執着するなかれの意味なのだ――。この無執着だけが、あなたの全人生を喜びに満ちたものへと変えるに足るのである。



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