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2018年12月20日09:03

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長保寺

 17日月曜日は、紀州徳川家の菩提寺である和歌山県海南市の天台宗慶徳山長保寺へ行って来ました。
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 JR阪和線三国ケ丘0656時発の湯浅行5707H快速電車に乗車し、0818時着の下津駅で下車しました。
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 運賃は1320円でした。
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 線路と国道42号線を陸橋で渡り、東北へ向かいました。
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 県道165号線を東進すると長保寺に到着です。
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https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%95%B7%E4%BF%9D%E5%AF%BA/@34.1091128,135.1634663,17z/data=!3m1!4b1!4m5!3m4!1s0x60074e3650b9c343:0x4a904f6dc17f6b4f!8m2!3d34.1091128!4d135.165655
 長保寺は寺伝によれば、長保2(1000)年に一条天皇の勅願によって第3代天台座主慈覚大師円仁の弟子である性空によって創建され、年号を取って「長保寺」と号したとされます。その後、法相宗に転向し、寛仁元(1017)年には七堂伽藍と子院十二ヶ坊が完成していたとされます。
 創建時は現在地より西方の海寄りにありましたが、真言宗に転向して鎌倉時代末期に現在地に移り、京都の仁和寺から印玄という僧が来て伽藍を整えました。
 戦国時代には衰微していましたが、慶長5(1600)年に紀州藩主となった浅野幸長より5石の寄進を受けて復興しました。
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 寛文6(1666)年に当地を訪れた紀州藩主徳川頼宣は、長保寺を紀州徳川家の菩提寺に定めました。境内東斜面には広大な藩主廟所があり、頼宣以降の歴代藩主が眠っている。但し、8代将軍となった5代藩主吉宗と14代将軍家茂(イエモチ)となった13代藩主慶福(ヨシトミ)の墓は東京にあります。
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 長保寺は、日本遺産「絶景の宝庫 和歌の浦」の一角を形成しています。
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 大門〔国宝〕です。
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 嘉慶2(1388)年建築の本瓦葺(ホンガワラブキ)入母屋造(イリモヤヅキリ)三間一戸の楼門で、扁額は後神光厳天皇皇子の妙法院堯仁法親王の筆です。
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 大門の金剛力士立像〔和歌山県指定文化財〕です。
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 弘安9(1286)年の作品です。
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 拡大したら、こんな感じです。
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 塔頭(タッチュウ)の南陽山福蔵院です。
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 拝観受付所が無人だったので、箱に所定の300円を入れて、石段上の本堂へ向かいました。
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 本堂〔国宝〕です。
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 延慶4(1311)年建立の本瓦葺入母屋造で、桁行5間・梁間5間で、1間の向拝が付いています。
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 多宝塔〔国宝〕です。正平12(1357)年建築で、本瓦葺です。
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 門・本堂・塔が全て国宝に指定されている寺院は日本広しと言えども、法隆寺と当寺のみです。
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 護摩堂です。
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 ここまで来て、ショッキングな事が判明しました。9月の台風21号による倒木で、肝心の紀州徳川家墓所〔史跡〕が立ち入り禁止になっていたのです。ガックリですわ。
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 阿弥陀堂や鐘楼もブルーシートで覆われていましたから、台風被害を受けたのかもしれません。この一帯は21号の通過コースでしたから…。
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 大門遠望です。
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 鎌倉時代後期建立(コンリュウ)の鎮守堂〔重要文化財〕です。ここへ近づく事も出来ませんでした。
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 当時には寺宝として鎌倉時代作の絹本著色仏涅槃図〔重要文化財〕が伝わりますが、現在は文化庁で保管されています。
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 寛文2(1662)年建立の紀州藩霊殿〔和歌山県指定文化財〕です。
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 紀州徳川家墓所廟門です。
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 唐門形式になっています。
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 御成門です。
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 長保寺境内や周辺では多くの花々が咲き乱れていました。
 キダチアロエです。
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 狂い咲きの高砂百合(タカサゴユリ)です。
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 トウワタです。
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 山茶花(サザンカ)です。
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 フレンチマリーゴールドです。
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 ノゲイトウです。
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 変な形状の雲が漂っていました。
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《続く》
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