大学の面接授業で27日、28日は奈良女子大学へ行ってきた。
自分にとって思い出深い大学だ。
高校生のころ、ステキな女子の先輩がいた。
めちゃくちゃ性格の良い人だった。
容姿はまあ普通の十人並み。
わたしはその先輩に憧れてしまった。
女性は顔より性格だなあと知ることができたのもその先輩のおかげだ。
彼女が進学したのが奈良女子大だった。
自分も同じ大学に行きたかった。
でも女子大だから諦めた。
今だったら「ボクはトランスジェンダーです!」とか適当なことを言って潜り込めるかもしれん。
その奈良女子大の教室で授業を受け、あろうことか学食でお昼ご飯を食べた。
先輩のことを思い出し、感激してもう死んでもいいとさえ思った。
しかし冷静になって考えると、先輩はもうけっこうな歳のオバサンになっているはずだ。経年劣化の使用済みかもしれん。
うーむ、やはり自分はまだ死んではいけない。
それで今回の講義の内容は「吸血鬼」だ。
ドラキュラの時代からヴァンパイアがどのようにフィクションの世界で描かれてきたかを探る。
ヴァンパイアは土着のフォークロアから生まれた。
それで最初から辺縁の存在だった。
ドラキュラの場合もイギリスから見た辺境の地のトランシルヴァニア。
だから性的なもの、抑圧されたものと結びつく。
現代になるとそれはティーンエイジャーの自己投影やマイノリティとくにゲイの隠喩になっていく。
それぞれの作品で驚いたこともあった。
「ドラキュラ」はイギリス帝国主義の不安と罪悪感を読むことができる。
「インタビュー・ウィズ・ヴァンパイア」はホモソーシャルな関係が描かれている。
「トワイライト」は原作者がモルモン教で、その倫理観が反映されている。
極めつけは「ぼくのエリ 200歳の少女」で、日本版はカットされているけど、じつはエリは去勢された男の子だった。
この映画は少年少女のラブストーリーだと思ってたのに、だったら解釈がまったく違ってくるぞ。
日本では吸血鬼伝説なんてなかった。
輸入された恐怖だ。
それでヴァンパイアは西洋の侵略のメタファーになった。
圧倒的な西洋の文化、それに対抗する日本という構図が日本における吸血鬼物語の原型だ。
えーと、そうすると「ゲゲゲの鬼太郎」の吸血鬼エリートはどうなるのだ。
水木しげるさんのアメリカとの戦争体験が表象されているのか?
どうりでほかの妖怪よりも図抜けて恐ろしいはずだ。
ということで、楽しい授業だった。
先生も若くて美人だったし。
奈良女子大学のキャンパスを散歩していた。
鹿が普通に歩いていた。
さすが奈良だなあ。
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