mixiユーザー(id:4209164)

2018年10月10日12:39

265 view

非二元(ノンデュアリティ)と、密教。

今回は、ちょっとマニアックな部分なので

飛ばしてもらってもいいです。



ツイッターに適当につぶやいていたので

それをまとめました。

ブログにも載せたので
こちらにも載せておきます。


難解だと思います。。。



----------------------------------------------



非二元というのが、メジャー?になっているみたい。 

空海の十住心論では、
8、9個目に書いてあることかなと思う。





個別化された個が、

ソレを見つける過程の絶対的なゴールになったものは、

空海は満足しなかったんじゃないかなと思う。





なので、遍在しながら、 

世界中における個として、 

実在として立脚すること。 





つまり、

曼荼羅(まんだら)としての理解に到達したのかと思う。





それは、遍在が、

個として遍在的に、バラバラに同一に 入り込む中

で広がる世界観だと思うけれど。 



世界観というか、実際に感じうる世界で、

それが曼荼羅としての立脚なんじゃないか。





それは、おそらく、

空海の密教における「密蔵(みつぞう)」の入り口

だと思われるが、



一般的には、まず遍在からの入り

が不可能であるために、



ある意味の叡智としての

3密(身口意を如来ボディとして同一するような修行?)

じゃないかと思う。





実際には、

3密は、密蔵の蔵を開ける、遍在の入り

があった上での、 3密があり、

だからこその
正統後継者である
空海の実業だと思うけれど、 

それはまず不可能だと思う。



まるで、宇宙人のような感じ。





だけれども面白いのは、

三密は、それ自体が叡智であるがゆえの、 

遍在の入りを完全に完得しなくとも、

奉仕が可能ゆえの密教のすばらしさ

だったんじゃないかと思う。





つまり、個から遍在、

そして、遍在から遍在個。 



自己から、曼荼羅への理解に到達し、 

”遍在曼荼羅としての遍在個性かつ、個”。 



その中で、広がる世界観と、 

このバラバラの世界の中で迷うソレを知らぬ 個の世界が、 

ソレを共有しているために可能なことかもしれない。 







つまり、タオ由来の創造が。





下に向かって

伸びる時



個は、遍在とわかちあう世界観の中で

叡智を吟味し



その実行は、

数世代先を見越した 慮(おもんばか)りの上で

行われて



その背景は、

曼荼羅によって支えられ



その方向は、

タオに整合したものによって

養われている



とも、言えるのかもしれない。。
1 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する