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2018年09月28日20:43

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真理とは、何か?

「ワタシ」という縁(ふち)の外

には何があるだろう?


私というもので
知性的に捉えられるものは、


「わたし」という

確固とした存在が必要で、


その外があるとしたら、
きっと、捉えられないだろう。


その縁の内側で、
悟りとは、真理とは
ということが、

推定されるようになり


知的に悟りが解釈され、

「知的な私」としての見方から

そこから、

「悟りを理解した私」という尊大さが

生まれ

残念ながら、
その尊大さは、
生命を養わないように
見える


教えは、知性の内側で理解され

ハートを貫通せず



知的な知識の教養

とでもいうそれは、

権威の象徴のようだ



「すべては空である

幻想である」



という言葉が、

知性によって乱用され



ただのくだらない言葉になり、

その人を幻想の世界にまるで

閉じ込めるようだ

そして、何もしない人が量産される


ハートに貫通するとき
それは、競争的な賢さをもつ知性が
まるで、死ぬかのようだ


誇らしさもない
示すこともない


ハートで貫通し
経験せねば


結局は、
私という縁の内側で
知的に押しはかった推量の域を
出はしないだろう



それは、結局は、
慈しみは何であるか

とか、

生命との共感を

とかを排除した


空間理論の域を出ないし、

私が創り出した
私の縁の内側を
私が再確認するだけの行為であり

慮る心は、
その無(として誇っている理解)には、
必要ないのだ


なので、それ以外で成り立つ

まるで、定理

数学の公式を理解したように

近似することで、

それをヨシとしてしまう



ロジック的には、

こう成り立つんだ

ああ、そうなんだ

で終わってしまう



私という縁の外側には

何があるだろう?


すべてが五感で感じる
私の世界しかないようにしか
見えないのに


そして、推量も
推定も

ひょっとしたら
私が教え込まれてきたことの
延長かもしれない


世界を認識するすべてが
すべて私を元にしているのに


ワタシの縁の外なんて
何が何なのだろうか?


おそらく、
次のような段階が
あるのかもしれない。。



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ワタシの縁の内側で
苦しんで死んでいく

ワタシの縁を意識する

ワタシの縁の向こう側の
何かと合一する

縁に関する理解を観察する

縁のスペシャリストとなる

星の縁を限定する
波及効果をもたらす力と
その行使を学びだす


これのどこかで、
世界において、
覚醒のムーブメントに向かう
静かなるタオが知覚され


それを行う個として
実行に価値を見出す

   
※ある時代のある観点より。


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