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2018年09月27日21:00

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自分のためだけの覚書120

熊谷晋一郎氏インタビュー
https://www.buzzfeed.com/jp/naokoiwanaga/kumagaya-sugitamio-2
を読んで、思ったところを書く。

まず、熊谷氏の言説は、好感が持てる。杉田議員の言説の、どの部分がどのような判断をされた場合に問題となるのかという論理的な反論がなされている。

インタビュー記事は1と2があり、まだ続きがあるようで、それを見ない限り、これはこうだろうとか言い切ることはできない。

なので、今から書くことは、あくまで1と2のインタビュー記事を読んだだけの情報であり、3が公開されたら、意味がなくなる可能性もある内容である。

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「今回、杉田議員の記事に対して、障害者運動の団体が異議申し立てをした背景も、『性的マイノリティへの対策は生産性につながらない→生産性につながらないのであれば国が公的に対応すべきものではない』といったロジックへの反発があります」

国がどこまで対応できるのかという話をするときに、いつも私が不思議に思うのは、まるで、国は打ち出の小槌を持っているかのように話す人が多いことだ。

医療保険で国の財政が圧迫されていることは疑いがなかろう。近代国家であろうがそうでなかろうが、維持することのコストが膨れ上がり、コストを国が賄いきれないと、破産するか崩壊するのだ。

これは決して『生産性がない人々に対して、国や社会は税金を使った支援(再分配)をしなくてよい』という考えに基づいている話ではない。むしろ、それを否定するため
「限りある国の資源を、どうやれば効率的・合理的に、質・量ともに最大値を得られるように、使うことができるだろうか」
という「生産性」の考え方なのである。

カンバン方式、自動化、システム化など、これらすべて「生産性」を上げるために行われているのだ。

一人でも多くの人々、障害があっても生きていく事ができるようにするため、限りある資源を効率的に使えるよう、生産性を高めていく、というのは必要な話のはずである。

「生産性とは無関係に、すべての命が無条件に肯定されるべきという『青い芝の会』の主張は、日本国憲法第25条に掲げられる国の生存権保障義務を踏まえれば、当たり前の主張に過ぎないのですが、当時はラディカルな主張として受け止められました」

私もすべての命は、無条件に肯定する。誰かに殺されるとか、死んでしまえとか、生きていく価値はないとか、そんなことはない。
だが、そこから「だからお金頂戴」という話につながっていかれると困るのである。
なぜなら、国の資源は有限だからである。

私たち一人一人の資源も有限である。可哀そうに思うが、私が障碍者たちを、積極的に助けることはないだろう。席を譲るとか道を譲るとか、そういうレベルでは助けるが、私の人生の時間を使い、お金を使い、障碍者の人々を助けるような事はしないだろう。

仕事をこなし、プライベートでは趣味を楽しむ。私がこれからの生涯で趣味に使うお金を、すべて寄付すれば、障碍者が二人三人生きていけるとあっても、私は寄付はせず、趣味に使う。この私の行いを

「障碍者に寄付をしないのは、私にとって寄付という行為が、私の人生において再生産をもたらさないと判断したためであろう。しかし、これは価値判断を生産性に基づいて行っている。それは優性思想につながる。それは誤っている」

と批判する人がいるだろうか。

恐らくいまい。もし上記の言説が肯定されるならば、記事でいうところの「『生産性がない→その人に価値はない→その人の必要性(ニーズ)を満たす再分配は必要ない』という優生思想のロジックは、目的と手段が転倒してしまっているように感じます」
の生産性のところを『優性思想に基づいて行動している人』に変えても成立してしまう。

『優性思想に基づいて行動している人がいる → その人に価値はない → その人の必要性(ニーズ)を満たす再分配は必要ない』という「人の必要性こそが価値の源泉」という思想のロジックは、目的と手段が転倒してしまっているように感じます』

という論絶が出来上がってしまう。

一応、小児麻痺とかそのレベルの障害はなく、精神科で診察を受けたことがないからわからないが、一応健常者として私は生きてきた。私のような人は多かろう。

そんな小市民たる私は、「こうあるべき」「こうでなければならない」「こうしろこうしろ」という言説を聞くと、「ああ、この人たちは私の行動から何から何まで口を出してきて、批判して、強制してくるのだな。嫁姑の関係の、姑になろうとしているのだな」と感じるのだ。

この熊谷氏のような言説ならば、そういう感覚を覚えることはないが、「あのヘイト本」とか、看板につけるような人物たちが言っているのを聞くと、そう思えるのだ。そしてこう考える。
「知ったことか」「勝手にやってろ」「付き合いきれない」と。

私が趣味の小説を読んでいたら、「こんな小説を読んでいるとは、お前は差別主義者だ」と絡んできた人がいたとしよう。そんな人を信用できるだろうか。差別主義者のところを「非国民」「優性思想」に変えても同じだ。そういうように「個人の心を自由に変えることができる。または変えなければならない」と考える人こそ、優性思想の持ち主ではないのか。

それが信用できないのだ。気が付けば雁字搦めにされている。他の理屈が生きる場所がない。つまり、全体主義になるのだ。

これがポリコレだったり、LGBT問題について、胡散臭い目で見て、反発を覚える最大の原因なのだ。

LGBT問題は、対応されるべき、重要な問題だろう。しかし、「何を差し置いても真っ先に解決されるべき最重要問題」ではない。
これは間違いないだろう。
国のリソースの内、0.1%も払えば御の字な問題であろう。
私が懸念するのは、問題は解決しようと考えているし、法律も作ろうと議論するし、対応はしようとするにもかかわらず、いちゃもんをつけて政権批判につなげ、次の選挙で議席を確保しようとする、屑野党、屑政治家が現れる事である。

代表例は「保育園落ちた 日本死ね」を取り上げた奴である。
あんな事をまたしようとしているのか、と、つい身構えてしまう。

本当に、LGBT問題に関わる人は気を付けてほしい。

今、貴方たちに話を聞こうとして、表に引っ張り出そうとしている人たちの9割は、貴方たちのことを、安倍政権批判の道具としてしか見ていない。
杉田議員を責め、安倍首相を責め、保守派を責め、自分たちの支持率を上げるための道具としてしか使わない。

政治家とは一切かかわらず、また政治部の記者とは関わらず、まずは自分たちがどのように存在するのかを考えてほしい。

記事では

「自ら再生産への参入を求めてきた障害者運動

――生産性で人を判断するなと主張してきた障害者運動が、同時に再生産を求める主張をしてきたということですね。

「これは、障害者運動の側も、立ち止まって振り返るべき点であるように感じています。生産性の強調を批判する一方で、再生産への強い志向性を持ってしまうことが、誰かを抑圧してしまっている可能性はないのか、という振り返りです」

とあるように、振り返って考えてみてほしい。そして考える際には、生産性という言葉に囚われることなく、現実問題として、有限の資源を有限の時間でどのようにしたら最も「生産性が高く」分配できるのか、というコスト思考を加えて考えてほしい。

国は、柔らかい椅子を置いて、回転率がどんなに低くなっても存在できるような、都合のいいファーストフード店ではないのだ。

「政治や運動が目指すべきは、まず、椅子をもっと柔らかくすることなのだと思います」

そして、その先まで考えてほしい。
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