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2018年08月28日20:08

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土方歳三戦死の地・亀田八幡宮

帰りフェリーの時間が迫っていた為、駆け足で巡りました。見逃した所も多いので、いつかゆっくり再訪したい史跡です。

土方歳三戦死の地https://goo.gl/maps/jUTsZfRBZwy
 明治2年(1869年)5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始され、島田魁らが守備していた弁天台場(函館山の北方・現函館どつく辺り)が新政府軍に包囲され孤立したため、歳三は救出の為、50名の僅かな兵を率いて出陣。
 新政府軍艦「朝陽」が味方の軍艦によって撃沈され隙に、箱館一本木関門で敗走する味方を収容、一本木関門を守備し、七重浜より攻め来る新政府軍に応戦。馬上で指揮を執った。
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銃弾が腹部に命中し落馬、戦死した享年35際。
 歳三の命令によって台場方面に進軍していた大野率いる兵士らは一時勢力を盛り返していたが、歳三の死によって総崩れとなった。歳三の遺体は小芝長之助らに引き取られて、他の戦死者と共に五稜郭に埋葬されたとも、別の場所に安置されたとも言われ。場所は特定されていない。
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猿田彦塚
 箱舘村と亀田村との境界標であったと伝わっている。昭和20年鶴若神社の境内にあったが疎開のため移転、塚は行方不明となった。昭和31年付近の民家の庭から塚の破片が発見され、その破片を使ってここに復元された。
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亀田八幡宮https://goo.gl/maps/31DJGh6TLBU2
【御祭神】誉田別命
 創建年は諸説あり、神社の由緒では1390年(明徳元年)河野加賀守森幸が氣比神宮から八幡神を奉遷したと伝わる。
 コシャマインの戦いの際、武田信広が祈願したところ、七重浜に生えていた柏が軍勢に見えたため、アイヌが降伏したとの伝説がある。その後1594年(文禄3年)に松前藩の祈願所となり、1603年(慶長8年)に松前盛広により本殿が建立された。
 
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1869年(明治2年)5月の箱館戦争で戦場となり、社務所が焼かれ神輿殿(旧本殿)には弾痕が残る(見逃しましたふらふら)同年5月17日には、榎本武揚らが近くの民家で新政府軍と降伏交渉を行った後、本神社を訪れ降伏を誓約した。
 
御朱印
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