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2018年06月11日07:47

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山登り

最終目的は観光登山、という割には、ずいぶん張り切っている。その違和感というのは「富士登山というのは本格登山なのか観光登山なのか?」の答があやふやだといところに似ている。山というを登山という、人間から見てのアクティビティーの対象としてその属性を考える際、単に標高が高い低い、観光客が多い少ないで語られるべきではない。まして、生命の危険が介在する行為であるだけに、その辺りはきちんと線引せねばならないのだが、できない。それが登山というものの難しさの一つであり、楽しさなのかも知れない。ちなみに、先週末、長野県の山に登ってきた。

日程は1泊2日。さらに麓の温泉地に前泊したので実質的には2泊3日。残りの1泊は登頂目標にした山のほぼ山頂にある山小屋で宿泊。標高3000mくらい、ビスコなど持っていくとパンパンになるという、かなり本格的な場所に泊まるほどかなり本格的な山だった。登山にかんするWEBの評価をいると、それほど高くはないのだが、それでも鎖場とよばれる、あまりにも急斜面すぎて、鎖をもたねば登れないような、壁を登ったりした。頂上付近では、昇っている人のほとんどがヘルメットを着用。「大げさだなあ」、実際登るまでの思っていたのだが、実際登るとその理由が腑に落ちた。ガレとよばれる岩が割れて踝大になった岩が、先行登山者の足元からゴロゴロと落ちてくる。ちなみに観光目的が最終目的な自分はそんな本格的なツールなど持っておらず、気をつけながらのぼった。

日本のスポーツにおいて、60%くらいの死者は登山によるものらしい。ちなみに、今回の登山ルートでもかなりの人がなくなっている。縦走と呼ばれる、何個かある頂上を尾根つたいに登ったのだが、その一つの頂き付近では2ヶ月くらいまえにも学生のパーティーが遭難しなくなったらしい。「なぜそこまでし登るのか?」というのが、登らない人々を含めた意見交換の場でよく取り沙汰される。登る方の言い分としては、リスク(命)を賭して登るだけの価値のある山だから。その価値は単に眺望というだけでゃなく、個人的な達成感やら、おのおのによって違う。実際、今回「死」というリスクが介在する山に登ってみて、なんとなくその意味の行ったんがわかった気がした。

まあ、考え見れば、ヒトの人生なんて、なにをやっても、どんな時間であっても死の可能性を含んでいる。そしてそのリスクというのは、生きていれば生きているほど(生きる時間が長ければ長いほど)増えていく(絶対にへらない)。であるなら、「これは命を賭す価値がある」というところを、自分で選択したいものだ。死ぬ次期やら寿命なんて誰にもわからないのだから、それくらいは、己で選びたい。

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