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2018年06月05日05:48

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ナポレオンの生涯と石原莞爾

石原莞爾は歴史研究、とりわけナポレオンの戦争の研究を楽しみにしていること、最終戦総論をさらに精巧に練り上げるのに興味を持っていること。石原莞爾はナポレオンの生涯を見て、驚嘆するのは、その目覚ましい活動だと語っています。ナポレオンの父母は、コルシカ島の落ちぶれた貴族で、ナポレオンは貧しい境遇に育ちました。

子どもの頃に両親のもとを離れて、フランス本国の士官学校に入れられていましたが、同級生にはお金持ちの貴族の子どもが多く、ナポレオンはいつも仲間から軽蔑されて、寂しくひとりぼっちになっていました。学校を出て、隊付き将校になった少尉中尉の時代にも、相変わらず貧乏で、青年らしい楽しみを追うことなんか、とてもできなかったのです。

はなやかな集まりから遠ざかって、ひとりコツコツと勉強している、蒼白い顔した陰気な青年将校だったと言います。ところが、24歳の年にフランス革命の大騒動が起こると、この貧乏青年が、将軍になってしまいました。人民軍がトゥーロンの要塞を攻め落としたとき、この青年将校がすばらしい働きをして、手柄をたてたからです。

それからが、あの有名なアルプス越えです。武装も整っていなければ、訓練もよくできていないがボロボロの軍隊を率い、突然アルプスを越えて、なだれのようにイタリアの平原に侵入したかと思うと、たちまち、オーストリアの大軍を撃破し、どこへいっても、勝利を収めたのです。戦利品をもって帰えってきて、パリ中の人気を一身に集めたのです。

その頃、フランスは大革命の後で、政治上の争いが年ごとに激しくなり、国民は不安がいつまでも続いていました。そして、フランス人民は、国内の秩序と平和とを、心から求めはじめていました。ナポレオンは、この機運に乗じて、武力で政府の組織を改め、次第に権力を自分の手で集めていきました。

最初は、三人の執政官の中の一人となり、次いで終身の執政官となり、とうとうフランスの共和制をやめて、自ら皇帝の位にのぼってしまったのです。このときナポレオンは35歳です。わずか10年の間に、貧乏将校の境遇から皇帝の位まで、一気に駆け上ってしまったというわけです。こんな目覚ましい出世が、ほかにあるものではありません。

皇帝になってからも、ナポレオンの勢いは止まりませんでした。ヨーロッパの諸国は、イギリスを中心として同盟を結び、何度もナポレオンを倒そうとしたのだけれど、すべて失敗に終わってしまいました。戦争をしかければしかけるほど、軍人としてのナポレオンの天才が発揮されるばかりだったのです。

アウステルリッツでも、イェーナーでも、またワグラムでも、ナポレオンは長く歴史に残るような見事な勝利を続けていきました。オランダは早くからナポレオンに服していましたが、いまや、イタリア半島もナポレオンの支配のもとにつき、ドイツもナポレオンの権力に屈服し、スペインもナポレオンの勢力に従うことになりました。

こうして、一時、ヨーロッパ大陸は、東のロシアを除くほか、ことごとくナポレオンの威令に服従することになってしまったのです。1808年、ナポレオンがエルフルトで全欧会議を開いたときは、ドイツからは4人の国王と34人の王侯とが、ナポレオンに挨拶するために集まってきたのです。

ナポレオンは、そういう王様たちにかこまれて、わざわざフランスからつれてきた名優のタルマの芝居を見物したりしました。このときナポレオンは、まったく文字どおり王様の中の王様だったのです。こうして、ヨーロッパ大陸に住む何千万の人間の運命が、たった一人のナポレオンの意志で勝手に左右されるほどの、素晴らしい全盛期がやってきた。

ナポレオンは権勢の絶頂にのぼりつめた時です。しかし、ナポレオンはわずか数年でこの絶頂から、たちまち破滅の底に落ち込んでいくのです。そして、その没落のきっかけとなったものは、ドイツと同じあのロシア大遠征の失敗でした。なぜ、ナポレオンがロシアを攻めに出かけて行ったのかというと、ロシアがナポレオンの命令をきかなかったからです。

命令されてもイギリスとの通商をやめないからでした。イギリスは、ヨーロッパ大陸から離れた島国であることを頼みとして、少しもナポレオンの権力と妥協せず、最初から最後までナポレオンに敵対し続けた国です。ナポレオンはこのイギリスを困らせるために、ヨーロッパ大陸とイギリスとの通商を厳禁としてしまいました。

だが、これは元来無理なことだったので、どうしても成功しない、とうとうナポレオンは腹を立てて、ロシア遠征を企てたのでした。これは、ドイツの遠征と同じように惨憺たる失敗に終わりました。戦いには大勝利を占め、いったんはロシアの首府モスクワまで占領したのだけれど、さすがのナポレオンも、酷寒と糧食の欠乏とには勝てませんでした。

雪と氷の中を飢えに苦しみながら退却してくる途中で、何十万という兵士たちは空しく凍え死んでしまいました。凍え死なないものも、コサックの追撃にあって殺されていきました。そして、最初ロシアに侵入したときには60万以上もあった大軍が、帰りには、ロシアの国境を越えた者が1万にも満たないという、悲惨極まる有り様になったのです。

この大失敗がヨーロッパ中に伝わると、まず、第一に武器を取って立ち上がったのは、長い間ナポレオンの圧迫をはねのけようとして、その機会をならっていたプロシャでした。続いて他の諸国も一斉にナポレオンに反抗し、同盟を結んで、フランスに攻めよせてきました。ナポレオンにも、とうとう滅亡の時がまわってきたのです。

今度ばかりは、ナポレオンもこの連合軍に勝つことができず、戦いに敗れて捕らえられ、エルバ島に流されてしまいました。その後、いったんエルバ島に脱出し、もう一度兵を集めて、有名なウォーターローの戦いで最後の決戦を試みたけれど、これも敗北に終わり、ついにアフリカの西のセント・ヘレナという離れ小島に、監禁されたのです。

気候の悪いその島で五年半、不自由な暮らしをしたのち、ナポレオンは寂しくそこで死んでいったのです。ナポレオンを研究していた石原莞爾はロシア遠征を国民党との戦いと同じだと分析しています。しかし軍内部では、事件の拡大に反対する声も強かったのです。

石原莞爾は明確にこう言い切った。「中国とは戦ってはならない。戦えば、必ず持久戦となる。今は対ソ連準備を完成するのが急務である」だが、首相の近衛文麿は中国出兵の声明を出してしまいました。近衛内閣の中国出兵声明は、中国側に想像以上のショックを与えました。南京政府主席の蒋介石も演説してその決意を示してしまいました。

「いまや中国は生死関頭にあり。予も国を挙げて抗日体制の先頭に立つ」その間、石原莞爾は参謀本部で、こう叫び続けた。「今のわが国の動員可能師団は30個師団で、うちその半分の15師団しか中国に当てられない。これではとうてい全面戦争はできない。だが、このままいけば全面戦争化、長期化の危険がある。」

「戦争を拡大すれば、戦史が示すように、スペイン戦争におけるナポレオンと同様、底なし沼にはまることになる。この際わが軍のとるべき道は、軍隊全部を、満州の国境までさげるべきである。そして近衛首相みずから南京に飛び、蒋介石主席と膝を交えて会談し、当面する根本問題を解決していただきたい。その時にはおよばずながら、この石原も同行させていただく用意がある」だが、歴史は石原莞爾の思うようには進まなかったのでした。

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