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2018年05月11日16:21

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中国王朝史17 遣隋使

★遣隋使

僅か38年で滅んでしまった「隋」朝であったが、
二代皇帝「煬帝」期に5度も日本から使節が送りこまれている。
有名な「遣隋使」ってヤツである。
エピソードが多いので語らずにはいられない。

当時の日本は「ヤマト政権(大和朝廷)」の時代末で、
推古天皇の治世であった。
その政治の中心には摂政の「厩戸皇子(聖徳太子)」が居たとされ、
彼の指示で小野妹子らを派遣したとされている。
この時、大量の留学僧を派遣するなど、
当時中国に定着しつつあった「仏教」に
殊更に傾倒していた聖徳太子の意向が窺い知れる。

日本国内の仏教の礼拝の是非を巡って
蘇我氏と物部氏が激しく争った
「丁未の乱」か起きたのは587年の事とされる。
その蘇我氏側の勢力にあった厩戸皇子は「三宝を敬え」と
十七条の憲法で謳ったのは有名な話だ

更に、第二回遣隋使の折に「日出処の天子…」の件で
隋の煬帝が日本の使節(小野妹子らしい)に対して激怒し、
その返書を紛失したかどで一悶着あった、というのは有名な話だ。
日本から隋に送られた親書の中で
「日出処天子(ひいずるところのてんし)」
が東側の国である日本(ヤマト政権)の天皇の事で、
「日没処天子(ひぼっするところのてんし)」
が西側にある隋の皇帝を指していた事に対して、
朝貢国である日本の者が対等の「天子」を名乗ったことを怒ったとされている件である。
これも真偽は定かではない。

煬帝のあまりの怒りでかなり酷い内容の返書だったため
これを「紛失した」事にして帰国したのではないか、
とも言われているが、
煬帝が本当に怒っていたのであれば、
その後も近いスパンで何回も遣隋使が派遣されている事実から
少し考えにくい。
どちらにしても一つの政権が、
強国を相手にしたとき初めて「クニ」という概念を持ち
現在の「国家」に近い形で認識され、
それを名乗る際に用いた「日出処」が「ひのもと」となり、
「日本」という国名の根拠になったと言われているのが
興味深いのである。

今考えると英語で「Japan」と呼ばれている根拠も、
あのマルコ・ポーロが東方見聞録で「ZIPANG」と表現したのがそれらしいが、
「日本」を北京語で発音すると「リーベン(併音でri ben)」といい、
この音を日本語風にカタカナに直すと「ズィーベン」となるのだ。
※中国語の濁音は「r」のみである。

これが音だけをローマ字で拾うと「ZiBeng」みたいな感じになる。
マルコポーロが書き取ったのはきっとこの音であり
それが「ZIPANG」になったのではないか、と言われているのだ。

何が言いたいのかというと
「Japan」と呼ばれる根拠も「日本」の中国語読みで、
それの最初の契機が
「遣隋使」の時に聖徳太子が煬帝に送った親書が始まりだという事である。

そしてその後、
「隋」が滅んだ後も「唐」王朝に「遣唐使」という形で
使節が送られるなど、中華帝国に繰り返し送られる習慣が続いたのである。

これら「遣隋使」も
煬帝の治世に合わせて送り込まれている(600年〜)など、
日本中国の関係は緩やかながら
友好的な交易が行われていた形跡が残っている。

それまでも南北朝時代は
南朝の「宋」「斉」「梁」に日本(倭の五王)は朝貢した記録が残っており、
小野妹子の墓や遺物は関西を中心に残されているが、
朝鮮半島を経由して往来していることなどから、
ルートとしては那の国(博多港は那の津という)から
朝鮮半島に向かったものと推測されている。

即ち、古来から日本からの中国へのルートとして
那の国(※)は有効なルートで
邪馬台国は九州にあったが、
神話時代〜飛鳥時代にかけて政治の中枢が関西に移動し、
遣隋使の時代、即ちヤマト政権〜飛鳥時代には
ほぼ隣接する範囲内の日本(蝦夷地や琉球を除く)は
統一政権「大和朝廷(ヤマト政権)」の勢力下にあったものと考えられる。


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