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2018年05月08日15:24

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中国王朝史15 史上最悪の暴君

 589年に中国を統一した「隋」だったが、
 616年の内乱で李淵は二代皇帝・煬帝に退位を迫り、幼帝に譲位させた。
 しかし、一向に態度を改めない煬帝に対し、
 618年部下たちは彼を嬲り殺しにするのである。
 煬帝に代わって帝位に就いた幼帝も次々と諸侯に禅譲していき、
 最後は首都を制圧していた唐の李淵が国を掌握する。
こうして「隋」代は僅か38年で滅んでしまうのである。

★史上最大級の悪く言われよう・煬帝

「煬帝(ようだい)」。
どんな世界史の授業でも、この名前は絶対に教わると思う。
先に述べた、文帝から見て「優秀」だったはずの次男、がこの煬帝である。
「隋の」二代皇帝である「煬帝」は、
「中国史に残る浪費家であり暴君であり悪名高い君主」とされて有名である。
何度も「高句麗(朝鮮半島に展開した北方民族の国。ツングース系?)」に遠征に出るも
打倒叶わず、大土木工事、大量徴発を繰り返し国家は疲弊していく。
そして、質素を重んじた父親の文帝に反して派手な宴や行幸を繰り返したという。

 やがてその事態に対し反発を覚える諸侯らによる大規模な内乱が発生すると、
忽ち「隋」は弱体化し、
「煬帝の従兄弟」とも言われる李淵(唐の高祖)が挙兵し、
「隋」の都・長安を制圧してしまうのである。

 この話自体が本当かどうかは既に怪しいが、
その後300年に渡り中国大陸の王者だった「唐」が遺した史書には
「そういうこと」として描かれている。
少なくとも「易姓革命」という思想から行けば、
「楊氏から李氏に代替わり」
「楊氏が出した天子(皇帝)に徳が無いので、徳がある新しい天子(李淵)が治めることになった」
「禅譲という本来あり得ない儀式が成立した(事になっている)」
など、様々な「易姓革命」のストーリーに沿った事象が登場する。
本当にその儀式的な手続きを行ったのかどうかは不明だが、
本当であったとしても実際に行っているのは国家簒奪であり
クーデターによる国家成立である。

 「煬帝」の場合はそれだけに飽き足らず、
本当の名前は「楊広」であったのに、
唐王朝により「天に仇為す人民を虐げるような悪い王」という意味の
諡号(おくりな)をされて「煬帝」と呼ぶようになっている。

 外征は、悩みの種であった「高句麗」の征伐を目論むが叶わず国力を低下させ、
内政では大掛かりな公共事業をやり過ぎるなど失敗はあった。
「万里の長城」の補修、
現在の北京から杭州までの「京杭大運河」の建設、
長安に都を、洛陽に新都を建造するなど、
現在の「世界遺産」に繋がる大工事に着手したのは、実は煬帝である。

僕の憶測も加えて言うが、
やはり「唐」王朝のひけ目は、「隋」から国を奪い取ったという事と、
2代皇帝の地位保全のためには
「煬帝」は特別に悪い存在にしておかないと、
唐の二代皇帝・李世民=太宗も同一視されかねないとの懸念があったのかも知れない。

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