少し休憩していた「中国王朝史」の復活第一弾は「隋」である。
三国志でお馴染みの司馬懿仲達の子孫である司馬炎が興した
「晋(西晋)」が統一を崩してから400年ぶりの中国統一になる中華帝国「隋」だが
彼らもまた、北方民族の出身の支配者であった。
〇隋の台頭
次の中国統一王朝「隋」については、
鮮卑拓跋氏の興した「北魏」に仕えていた楊氏一族の末裔、楊忠が
「北魏」が分裂し「西魏・東魏」に分かれる時(535年)に
宇文泰(うぶんたい)と共に「西魏」の設立に貢献した事から始まる。
宇文泰は鮮卑の人で、
その後その子が皇帝となる「北周(556〜581)」を興すのだが、
そこでも楊忠は要職に就き、
楊忠の息子・楊堅が後を継ぐことになる。
この楊堅が「隋」の文帝となり(581年)、
後に中国統一を果たす(589年)事になるのである。
577年「北周」の武帝は、
華北のライバル「北斉」を打倒し華北統一していた。
勢いのある「北周」はさらには南朝の「陳」を平らげれば
中国統一が実現するところまで勢力を拡大していた。
北方には「柔然」(モンゴル系)から独立した「突厥」というトゥルク系民族が展開し、
勢いを持っていたが「北周」がこれを退けると、
581年に楊堅は、
朝廷内で粛清を繰り返し人心を失っていた北周皇帝に
帝位を禅譲させ「隋」を興した。
※今回だけではなく、お決まりのパターンとして
この話の流れ自体が「楊堅が徳が高いから位を譲った」という
儒教思想の易姓革命に則っている事が分かろう
更にこの話は日本書紀の国譲りの出来事にもストーリーとして影響を
与えていると考えるのだが。
そして楊堅=隋の文帝は589年、
遂に南朝の「陳」を滅ぼして400年ぶりに中国統一を達成するのである。
英明な君主であったと言われる文帝だが、
その活躍は軍事面に留まらず、
派手好みで女好きの長男ではなく優秀な次男を皇太子に立てるなどし、
また着々と内政を整えるなどして「開皇の治」と呼ばれる善政を進めていた。
この時に始めた「ある民主的制度」が、
この先の1300年間、中国のシンボルのように続けられる事になる。
多少齟齬はあるが、考え方によっては世界に先んじて行われたものである。
これは、身分に関わらず政治に関わることが出来る制度で
当時の身分制度や社会情勢からすると大変画期的なものである。
それは「科挙」を導入したという事である。
「科挙」は試験によって優秀者を登用する制度で、
既に漢代に「郷挙里選」、
魏代に「九品官人法」と呼ばれる役人制度の整備は行われていたが、
全く身分を問わず官僚を登用する制度となった「科挙」は
世界に類を見ない画期的な登用法であった。
以降、清が滅亡するまで1300年間、役人登用の試験として広く門戸が開かれ
数多くのエピソードとドラマと問題点と
国際的にも影響を与えた制度である。
科挙に合格した者は「士大夫」と呼ばれ
かつては貴族階級の官僚を指していたが
科挙実施後は科挙合格者の官僚を指すようになり
その後は武断政治だった「元」代を除いた殆どの王朝で
政治の中枢を担う事になる。
現代に於いても、中国共産党における高級官僚にも
「現代の士大夫」としての矜持は見え隠れしており
現代日本で言えば高級官僚にこれが匹敵する。
結果的に、余りの狭き門であるが故に
一般市民より貧しい民草にはノーチャンスとなってしまい
余りの難しさにより老人になってから合格する者も現れ
余りの特権の強さにより、競争が激化し
環境的に整っていないと現実的に合格が不可能なレベルに達する。
そして、一定以上の身分からしか士大夫が生まれなくなってしまうのだ
ともかく、こういった戦争以外の取り組みを各種行っていた
英明な君主であった文帝はしかし、604年病に倒れてしまう。
≪年表10≫
535年 「北魏」が分裂し、「西魏」「東魏」となる。
556年 「西魏」の鮮卑人軍閥の宇文泰・楊忠らが「北周」を興す
577年 「北周」が北朝のライバル「北斉」を倒し、華北統一。
581年 楊堅が「北周」皇帝より禅譲を受け「隋」を建国、文帝となる
589年 「隋」が南朝の「陳」を滅ぼし、400年ぶり中華統一。
604年 文帝病死、第二皇帝・煬帝が帝位に就く
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