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2018年03月07日10:07

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方言がなくなることは、「存在」がなくなること。

今日は、たまには、言語について述べます。

Wikipediaに、たまに、妥当な記事(人文系では少ない)があることがありますが、
『グラマトロジーについて』(仏:De la grammatologie)
の記事は、良くまとまっています。
青春時代に、必死になって読んだのが懐かしいです。

言語論に縁がない方でもわかるように
内容をごく簡単に言いますと、

ぼくら(ソシュール以降の現代人)は、
存在を言葉によって表すと考えているが、実は不正確である。

ぼくらは、今ここにしかいない。
過去のものは、ない。あっても、痕跡である。
その痕跡を言葉によって表す。
つまり、言葉とは、失われた痕跡を存在させる手段である。

簡単に過ぎますが、そういうことです。

先日、高校時代の親友と話した日記は書きました。

前から思っていたことですが、
議論は標準語になります。
ところが、思い出であれ現在のものであれ、実感がこもったものは、方言になります。

たとえば、
「教員の質を上げるためには、夢が持てる職場を作らなければならないから、改革が必要だ」という議論は、標準語ですが、情緒を述べるときは、
「××のヤツも、辛かったこてや」
「教育学部のレベルは、下がる一方らんが。」
と、方言になります。

おもしろいのが、私は、父母の出身地の関係から、長岡弁のネイティブではないことです。
彼がネイティブであるかも、関係がありません。
長岡高校という場を共有したものが、当時の情緒に帰りたい…と思うその時に出るのです。

デリダが言う通り、失われたものを立ち現すのですが、立ち現すのは、意味ではありません。デリダが言う通り、存在――高校時代、部室長屋というバラックを校則に反して占拠した。電気工事をして、電灯はおろか湯沸かし器まで置いた。そこであるものはタバコ吸いながら、オリジナル問題集を、古文研究法を解いていた、セピア色になった人の影たちーー高校時代という情緒、すなわち、存在が建ち現れます。

…方言がなくなる…ということは、
ある言葉がなくなるということではありません。
その言葉が表す、人間関係がチリヂリバラバラになることです。

しかし、対案はないです。
これこそ、震災の災禍でしょう。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%9E%E3%83%88%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%BC%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6


■被災地方言、消滅の危機=避難で若年層流出−「継承」取り組む動き・東日本大震災7年
(時事通信社 - 03月07日 07:30)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=5015978
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