家族のありかたは、個人が選択するものです。
夫婦別姓に反対するのは、
「セックスは結婚してから」とか、「同棲はダメ」
「学生は白い三つ折りのソックスで」「スポーツマンは丸刈りで」
というほど、おぞましい思い上がりです。
なぜ、おぞましいか。
その意見の当否の問題ではありません。他人に対してこうしろという意見を抱くこと自体が思い上がりも甚だしいということです。
誰も、他人に生き方を指図できないし、他人に指図できるほどかしこい人など、この世に一人もいないからです。
隣の夫婦が別姓だからといって、こちらに危害が及ぶはずはありません。
銃器や酔っ払い運転の規制とはわけが違います。
同性を強制するべきだという考え方の人は、頭がおかしいですね。
よって、この話は、終りですが…
少々、補足したいと思います。
夫婦同姓を他人に強制するべきだという論者は、伝統ということを言いますが…
多くの人が指摘している通り、近世(江戸時代)までは、夫婦別姓が普通でした。
近世(という時代は、私の専門ですが)から、近代になって何が変わったか。
たとえば、純潔、貞操主義の台頭があります。
安土桃山時代は、梅毒(新大陸からコロンブス交換でもたらされたなどの説が有力だそうです)が新たな脅威となりました。
経験的に性感染症であることは知られていましたが、徳川家康をはじめ、未亡人を側室にした例は多いですし、「他の男性と交わった女性を側室にするとは…」という文脈で、そのことを批判した文献はありません。
どうしてこう変わったのか。
暫定的に私が考えているのは、知性の退化です。
純潔主義がどうとらえられていたのか。その、資料としてもっともアテになるのは、大衆文学です。
江戸川乱歩を読んでいたら、不倫した女性について、「他人の血が流れている女なんて…」という一節を発見しました。
古典では不倫を原因とした「穢れ」は、仏教的な罪や病気がらみのものしかないと言っていいです。
乱歩の時代には、性の魔術化が歴然とあります。
つまり、男女の結びつきが、魔術的なもの、反知性的なものになったとする以外ありません。
近代になって、我々は人間としての健全な常識を失い、退化したといっていいと思います。
制の魔術化 → 夫婦の魔術的一体化。
背景には、仏教の衰弱があります。
仏教は、宗教という側面と、理学という側面があります。
「夫婦が一体化し、共に幸せになる」などは、まさに、邪見。
もちろんそこには、阿弥陀如来がどうしたこうした…という宗教的な要素はありません。
■夫婦別姓容認、4割超に増加=希望者は少数−内閣府調査
(時事通信社 - 02月10日 18:00)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4981678
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