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2018年01月31日04:59

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〜懐かしいロシアの「乞食たち」との出会い〜


1917年から4年間同胞同士が殺戮しあう激しい内戦を繰り広げ、700万人の死者と引き換えにロシア革命が成就し、日本の約40倍の領土、15の様々な民族の共和国を率い、人口2億5千万人、核弾頭1万発以上を擁して数百万という巨大な軍隊を保持していた大国「ソ連邦」。
しかし、70数年の後世界で初めて社会主義、共産主義を目指した世界初の実験的国家「ソ連」は経済困難にあえぎ始め、社会の大改革を目指したゴルバチョフの急進的ペレストロイカが行き詰まり、1991年12月25日突然音を立てて崩壊し、大混乱の時代を迎えた。
その当時、私は脂の乗り切った48才で、15年前創立したソ連海運省専門の貿易会社が隆盛を極めており、大阪本社に社員15名を抱え、モスクワに駐在事務所を開設、シンガポールにも中国人スタッフ数名を雇用する現地法人を経営していた。そして、日本、韓国、シンガポールの大手造船所を下請けにした船舶修理業務や舶用機器、部品の輸出が隆盛を極め、年商も20億円を超え、瀟洒な自宅2戸と投資用マンション3戸を所有、連日高級車日産シーマを乗り回してわが世の春を謳歌していた。
しかし、「好事魔多し」の例えのように、ソ連崩壊後潮目が突然大きく変化し、旧ソ連海運省傘下の各地船舶公団との取引は壊滅的打撃を受けると同時に、長期支払い遅延が次々発生し、主要取引先であったウクライナ共和国オデッサに本社を構えて、300隻の大型貨物船団、数十隻の客船などを保有していたソ連最大の黒海船舶公団からの5億円を超す長期支払い遅延に見舞われ、塗炭の苦しみを味わうこととなった。
社会的、経済的大混乱のその当時ロシアで耳にした次のようなアネグドート(ロシア小話)をご紹介したい。
〜低迷するソ連経済の改革について多数の学者やジャーナリストたちが長時間喧々諤々の議論を重ねたが、結局名案が出てこなく、困り果てていた。すると、あるジャーナリストが最良の提案があると興奮して叫んで立ち上がり『ドイツ人と日本人のビジネスマン多数を至急招聘し、彼らの助言通り、ロシア人たちは何も考えず彼らの指示する通りに「右向け右、左向け左」と唯々諾々と働けば、経済は一気に改革され、急激に大きな発展を遂げるはずである!』と叫んだ。〜
第二次次世界大戦でソ連はドイツ、日本と血みどろの戦いを繰り広げ、両国ともソ連にねじ伏せられて敗戦し、ほぼ全土は焼け野原となったはずである。
しかし、すべてを失ったその敗戦国が大いに努力し、今や世界をリードする技術・経済大国に成長しているではないかというわけである。当時のロシア人を始め、旧ソ連諸国の人々は目指していた社会主義、共産主義にもとずく国家運営が大きくつまずき、全く出口を見失い自信を喪失してしまっていたのであろう。

そこで、次のようなアネグドートがはびこっていた。
〜ペレストロイカ改革中全国の商店からあらゆる商品がほとんど消え去り、あちらこちらの商店前には大行列が出現し、わずかの消費物資や食料を得るために人々は長い時間待ちでくたびれ果てていた。そこで、ゴルバチョフへの不満が一気に高まり、街にはもの不足への怨嗟の声が溢れ、「これはペレストロイカではない、カタストロイカだ」、「ゴルバチョフを殺せ!」と叫ぶ人々が拳を振り上げクレムリンに殺到した。しかし、クレムリン前に息せき切ってきてみると、またしてもここでも大行列である。要するに「ゴルバチョフを殺せ」と叫ぶ人々でクレムリン前は溢れかえり、やはり長い順番待ちとなっていた〜
期待していたゴルバチョフの改革が一向に進まず、生活が困難を極めていたこういった時代にも、ロシアの民衆たちは、自嘲気味ではあったが、ユーモア溢れるアネグドートで笑い飛ばして憂さを晴らしていたのである。
その頃、ハイパーインフレが大きく進み、あっという間に物価が10倍、100倍と高騰し、年金生活者はソーセージ数個を買えばそれで終わりという年金のみで暮らし始め。市内いたるところに、掌を上に向けてたたずむ老人が目立ち始めた。
いわゆる「物乞い、乞食である」。従来旧ソ連にも時折乞食はいたが、彼らは明らかに職業的ビジネスとして「乞食」業に従事しているほとんどが定住地のない放浪のジプシーたちであった。
一度当時のレニングラードでホテル前にいかにも哀れそうな表情のジプシーの老婆が寒風の中終日手を出して立っており、同情して数ルーブリを掌に載せると、突然目を剥いて怒り出し「なんでこんなに少ないのだ!」としわがれ声で怒鳴られたものである。また、別のところでは、「ルーブルはいらん、ドルを出せ!」と凄まれたこともある。
また、ロシア正教寺院を朝10時頃見学していると真っ赤な顔をして酒臭い息を吐きながらロシア人の老人男性がふらふら近づき、「新ロシア人のお若い方、どうか少々恵んでください」とのたまうではないか、アルコールの匂いのする息を吐きかけて物乞いする乞食は初めてであり、勿論あきれて追い払ったものである。
あるときはじめてロシアを旅行する日本人男性とレニングラードの地下鉄で移動していると、車両の床を4〜5才くらいのジプシーの少年が裸足で這い這いで近づき、座席に座る乗客の膝をなでなでしながら、「神の恵みを」と囁き順番に接近してきた。ロシア人の乗客はその哀れな子供が膝を摩ると、少しづつ少額硬貨を手に乗せてやり、少年は十字を切って次にすり寄っていく。
そして、私の連れの日本人男性の膝をさすり乍ら右手を出して恵んでくれと懇願し始めた。するとその男性が1ドル札を握らせたとたん、子供は大喜びで跳ね回り1ドル札を振り回しながら、脱兎のごとくハイハイしながら去っていった。そのあとが問題である。喜び勇んで去っていった子供の後ろにもう一人、同じ年ごろの裸足のやはりジプシーの子供が這い這いしていたのである。そして、二番目の子供が先頭の子供が1ドルをもらって有頂天になって去った後、脱兎のごとく這いよって、くだんの1ドルを与えた日本人男性の膝に思いっきりタックルしてしがみ付き、ドル札をくれと掌を振り回し始めた。驚いてその子供の目を見るとまるで狂犬のような必死の目をしており、友人はびっくりして足を振りまわすが、その子は狂ったような形相でしがみ付き、決して離れようとはしない。驚いた私と友人は次の駅で下車したが、ドルを恵んでくれと足にしがみ付く子供を引きずってしばらくホームに立ち、私が大声で数回怒鳴るとようやく彼は足を解放された。くだんの日本人男性は「1ドルで面白いものを見せてもらいました」との洒落た感想を述べ、その後のロシア旅行を楽しんでいた。
あれはソ連崩壊後エリツイン大統領2期目の選挙の時であったと思うが、モスクワ市内いたるところにエリツイン候補の色彩豊かなカラー刷りの一畳以上の巨大看板が立ち並び、右も左も「エリツイン」ばかりであった。確か数十名の候補者が立候補しているはずなのに、他候補のポスターはほとんどどこにも見かけられず、クーデター後大統領から引きずり降ろされたゴルバチョフ候補のポスターに至っては安物のガリ刷り状で、電柱に時折張り付けられていたが、半分ちぎれたポスターの似顔絵が寂しく風に揺れており、世界を一時興奮させたペレストロイカ推進の立役者も形無しであった。私は大統領選挙中のロシアにとても興味があり、モスクワ市内をあちらこちら見て回ったが、ある時クレムリン近くの地下道を散策中、再び素晴らしい「乞食」と出会った。
旧ソ連が崩壊直後であり、ハイパーインフレが続き、庶民は家にあるありとあらゆるものを売り払って糊口を凌いでいた。そして、私がその日通りかかった地下道でも段ボール箱の上に様々なものを雑然と並べ、声を枯らして通行人に呼びかける青年たちがいた。
すると、小奇麗なカーデガンをまとって数個の勲章を胸に飾った老婆が立ち寄り、血相変えて、その物売りの青年に噛みつき始め「あなたこんなものを売るのはおやめなさい。
恥を知りなさい!」と大声を挙げている。ふと何を段ボールの上で売っているのかと覗いてみると、第二次世界大戦時の英雄や、社会主義建設の功労者にスターリンが授与した名誉ある数個の勲章である。その青年は老婆の怒声にもめげず、素知らぬ顔で、通行人に声をかけ続けている。そして、その老婆に「婆ーさん、世の中は変わったんだよ。今度もエリツイン大統領で、経済改革が進むのだよ。こんなものは今では何の値打ちもないんだよ。あんたも良いものがあれば、何でもここで売ってあげるよ。」と全く小馬鹿にした態度である。
するその老婆は突然烈火のごとく怒りを爆発させ、「私を誰だと思っているのだ!」と叫んでカーデガンの胸にぶら下げていた2個の社会主義英雄勲章を見せて青年を睨みつけ、「こういった勲章を胸にしたものがこんな生活をしなければならぬとはどういうことだ。エリツインは再び国を滅ぼそうとしているのだ!」と叫んでカーデガンの胸をパッと開いた。そこには段ボール紙に「神の恵みを」とマジックで書かれた乞食の看板が現れたのである。その老婆の火のような怒りの言葉に、勲章をたたき売っていた青年は頭を垂れて、そそくさと店を畳んで去っていった。
私は緊迫感ある物売り青年と老婆のやり取りに、胸を熱くし興奮冷めやらぬ気持ちで地上に出ると、大きく右手を挙げたエリツイン候補の笑顔がまぶしい色彩豊かな巨大看板が左右に林立していた。
また、別のときであるが、地下鉄車両に30歳前後の女性が生後数か月の子供を抱えて乗り込み、にこやかに挨拶を始めた。「皆様、おはようございます。突然お邪魔致しますが、私先日離婚いたしました。そして、この幼子を抱えて、生活にとても困っています。どうか私たち哀れな母娘に神のお恵みをお裾分けください!」というのである。古今東西、私はこういった礼儀正しい物貰いに出会ったことはなく、感心してしばらく見ていると、順番に座席を回って頭を下げると、あにはからんや、乗客たちはほとんどすべて、少額ではあるがこの女性に神の恵みをお裾分けしているではないか!きちんと事情説明のあと、挨拶して回る乞食に出会ったのも初めてであるが、ロシアの民衆は困ったときには相互に助け合うという互譲精神に満ちている事を知り、胸が熱くなったものである。
しかし、皆さん誤解しないでいただきたい。こういったソ連崩壊前後の困難な時代をしばらく過ごしたロシアは、その後日本やドイツから「コンサルタント」を誰一人招聘もせず、自力で独自の改革を大きく進め、主要産業であるガス、石油などの輸出価格の高騰がしばらく続いたことも幸いし、旧ソ連時代の巨額な対外債務も完済、乞食も物貰いも消え去り、モスクワ・シテイーと呼ばれる「六本木ヒルズ」と同様の60階〜80階建ての高層ビルがモスクワ中心部に林立し、見事に復活を遂げている。全国の都市には巨大なショッピングセンターも続々開設され、ほとんど日本と変わらぬような豊富な商品が溢れており、ウラジオストクではレクサス、ランドクルーザーが次々と目の前を通り過ぎてゆく。
第二次世界大戦ではドイツ軍戦車にモスクワ・クレムリンから18キロ地点まで占領されて全土が破壊され、ナチスドイツに降伏一歩手前であり、スターリンはインドに亡命政権を樹立する計画まで建てていた。しかし、その後、1945年5月ソ連軍はドイツ軍をベルリンまで押し返して国会議事堂屋上に赤旗を翻し、ドイツ兵300万人を捕虜にして勝利し、赤の広場で大パレードを展開した。
そして、その後のソ連崩壊後の大経済混乱をしぶとく生き延びたロシアは、詠み人知らずのアネグドートに表されたような、民衆の底知れぬ楽天的精神力に支えられて再度発展を遂げつつあり、これからも益々文化が花開き、大きな経済成長を遂げることと確信している。

(平成30年1月28日 関西日露交流史研究センター代表 岩佐毅)

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