院生のころ、よく言われたのは、
「修士論文は、ステグマだ。何人(ナンビト)も、修論から決して逃れられない。」
という趣旨の言葉です。
これには、さまざまなバリエーションがあります。
「修論がダメなら見込みはナシ」
「修論を元にして、十本くらいの論文を書くことになる」など。
事実としてその通りです。
私は、近代国文学を専攻しました。
修了後に、研究を中断して、十年。
復活後、近世国文学と日本思想史に転向しました。
学会誌に出した五十枚程度の論文(修士論文の一割)や学会発表を考えていると、行き詰まるとき、突破するとき、本筋から離れたポイントを稼ぐとき、欠陥を作ってしまうとき…
があります。
ところが、それら(成果も失敗も)は、近代国文学のものです。
たとえば、近代だから、読みの多義性に気が付く、テキスト論が近世の人より操れる。
逆に近代だから、文献学に弱い(というより、文献解釈に独特の飛躍がある)など。
この大学生は、卒論を書きたくないほどですから、学問の途には進まず、就職するのでしょうが、
マズいと思います。
全く別のことをやるにしても、卒論作成時に考えたことは、
その後を決定します。
現在は仮の姿、過渡的な姿だと思っているのでしょうが、それは違います。
理系の大学に進んで、理系の職に就く人の、高校生時代の古文の授業は、いい加減でいいでしょうね。
自分の将来とは、無関係だから、舐めても害はありません。
「源氏物語のどこがおもしろいんだ。アフォな文系が読むもんだ。」と思ってもいいでしょう。
数列や場合の数で苦労しているからです。
そうした苦労の体験が一切回避した人は、どういう社会人になるのでしょうか。
よく、企業などで、「無能な人ほど、自己評価が高い」といわれます。その類でしょうね。
卒論は、自分の専門です。
仮にも専門とするところをやって、うまく行かなかった。
この挫折体験こそが、貴重な戒めとなり、その後の出発点となる。
内容的に良い卒論を書くよりも、その体験が貴重です。
空想と現実の差を思い知るということだからです。
そのころ、私は、コーポに住んで、徹夜でディスプレイと睨めっこしていました。気がついたらトイレの前の廊下で寝ている…というありさまで、何が何だか記憶もない日々でしたか、あるとき、サンドイッチを買いに出たとき、庭を掃いていた大家さんのインテリのご老人と世間話をした一瞬が、妙に印象に残っています。
「大学は勉強の仕方を学ぶところだ」といっていました。
今から思うと、
その「勉強の仕方」とは、書物の知識ではなく、思い知る、実感するという類の「体験」ということでしょうね。
大学関係者から嘆きの声続出! 「卒論を強要される」とハラスメントセンターに駆け込んだ学生が斜め上すぎる
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=85&from=diary&id=4920110
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