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2017年12月29日20:45

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「時の加速。」

書かなくてもいいかなと
思ったんですけど、

ひょっとして
フルスロットルを踏み始めることが
役に立つかと思ったので
書きます。

ものの見方の1つとして。


前回、3種類の仏教という
日記で、「時の加速」という項目
を書きましたが、
あえて深く書きませんでした。

ぶっ飛び過ぎてて
わけわかんなくなるかなと
思ったので。

ここに書く観点は、
インサイドアバターの本の
次の一文から、個人的に
思われたことです。

そして、この文が
私が、アバターウィザードコース
がマジ半端ねぇと思う
理由の1つです。


『あなたがこの世の中に
生きていながらも、
依然として自分自身を

「時間および時間が繰り広げる
さまざまな現実を創り出している
絶対的な力の一側面」

であると見なすとき、
あなたはこの世を形作る力を
発見するでしょう。


それが、ウィザードの技です!

中国の古代の道教では、
これを
「〈道〉を操ること」
と呼びました。

私たちは、
これをウィザードの技法と呼ぶのです。

by ハリーパルマー
インサイドアバターの本より』


------------------------

「時の加速。」

いま、私たちが
あらゆる創造と分かちがたい
分割しがたい性質を持つ
とするとき

時間の中に
含まれる私たちも
「時の一部」と
見なすこともできます。


時間とともにながれる
私たちを時間という創造の
一部に見るわけです

この時の流れは、
時代を引っ張り、
次の物たちを生み出している
かのようにも見えたりもします

その時間という
大海の中に
私たちがいる
とするとき

時代の中にいる
私たちは

時代の一部ともいえます

そして、その時代の
次の時代

それを
次の時間とも見れます。


このとき、
このようにも
見えます。

私たちが、自分の進化を
早めるとき

「わたし」つまり、
時間に包まれた時間の一部
が早く進化する

すると、
時間という全体も
より早く進む

という風にも
見ることができます。


密教的探求の萌芽は、
そこに見ることが
できるかもしれません


つまり、他者の覚醒が
迅速であって欲しいという
慈悲があるとき

それは、時を加速しうる
かもしれないということです



覚醒の絶対者の側面は、
禅や、個人のニルヴァーナについての
本より見いだせるかもしれません

その「個人」としての
視点は、客観的な洞察として
こうも見えるかもしれません。


『その人は、絶対的な安らぎ
を見いだし、

あるがままに
ことの成り行きを見守っている。

それは、ひょっとすると
周りの人を
よりそのままにして
その人を加速させている。

その人は、
あるがままであり
すべき事など
なにもないのだ。』



時の加速
については、

おそらく
その安らぎを見出した人の
また別の洞察かもしれません。


それは、こうです


「私は、これ以上すべき
ことはあるだろうか?

(より深い慈悲から)

他の命たちは流れ

そして、世界は
止まることはなく

たまらなく
自分を哀しくさせるのは
命の悲鳴だ。

たとえ、
私が安らぎを
得たからといって

これが全てだろうか?

他になにか
出来ることは
残っているだろうか?」



個人の安らぎから
視点は、生命の安らぎに映り

また、それは、
その安らぎについて

出来る限りなのだろうか?

という疑問からの
発心かもしれません。



もう、これ以上することない
というのは、
自己を発見する中での
ついぞ見つけたゴール
かもしれません。


そこには、
自分にとっての
最大の発見があり

時の加速

などする理由もありません

あるがままのものは、
あるがまま です。


そこを集中的に話すことも
出来るかもしれませんし
それもまた
必要かもしれません。


けれど、ここで
書いてるのは
「時の加速。」

についてなので
そちらの観点を
書きます。


私たちがもし
十分な数
時の加速をしたのなら

苦しみを味わう
生命、文明、文化、国は、
減るだろうか?


避けられるべきことを
避けることは可能だろうか?


もし、ある文明が
崩壊しうるのなら、
崩壊しない方向へとも
持っていけるだろうか?


時の一部として
ぼくらを見なす時
全体の進化は
何によって

支えられている
のだろうか?


そこに、
密教的探求者たちが
気がかりになる
質問があります。


「もし、仮に
その力が私たちにある時

私は、さらに歩を
進められるだろうか?

もし、仮に
その力が私にあるとき

その力を開発
しないことは、

生命にとって
そして、私にとって

不誠実な悔恨を
もたらす可能性が
あるのだろうか?

もし、私がのうのうと
私にとっての
得られた真理を生きるとき

その外側で、
よりよい可能性を
生み出しうることを
見ずに死ぬ可能性も
あるだろうか?


私は、何かに向かって
進化したいという
意欲を持ち、
そしてそれは
生命のためになるだろうか?

もし、私が
全身全霊に身を捧げ
それを生きる時

まったく見えなかった中に
希望の文明をもたらすのか?

そして、それは
ハートの震えを伝い

私の目に
とめどない涙を
浮かばせうるだろうか?」



おそらく、
密教的探求者が
それを見いだしたいと
強く願うとき

それは、菩提心
他者の苦しみを助け
覚醒を助けたいという

深い

利他心から
来ているかもしれません。


この段階にいる
密教的な探求者は、

喜んで
自分を進化させる道に
進むでしょう


なぜなら
そこには、

時の加速についての
深い直感からくる

確信があるからです


それは、
私にはわかりませんが、
その人にとっての

深い

次なる進化を
前兆していることと
思います



以上、そういう風にも
見える

という話でした(^○^)ノ


------------------

もし、
インサイドアバターに
書いてある観点から見るとき

ウィザードコースは、
「〈道〉を操ること。」
に関することだと言えるのかも
しれません。


そして、私は
アバターウィザードコースを
強くオススメします

きっと後悔しない
あなたにとっての
進化、魂的躍動の体験が
そこにはあるとおもいます٩( ᐛ )و


アバターウィザードコース
https://wizardcourse.com/ja/


今年のウィザードは、
2月3日からです٩( ᐛ )و
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