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2017年12月27日18:32

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osho見て、哲学を感じて。

 


※日本語字幕あり!


哲学って、面白いけれど。

oshoについても、
哲学の立場、アカデミックな立場から捉えるのと、
触れるのは、違うと思う。

哲学は、
ダムの外側のコンクリートから中を眺めているようなもので、
水の冷たさ、暖かさがわからないようなものかも。


アカデミックな立場から捉えると、
そういう『思想体系だ』になり。

oshoは、実在について話す。

実在は、
「ひょっとして論理的思考で捉えられないもの」と仮定すると、
決して近づけない。

あらゆる学問的なアプローチも、
それは『思想体系』としてしか眼に映らないだろう。

なぜなら、おそらく、
その立場が場所を立脚させるからだ。

決して、ダムの中には入らない場所を。

感情的にすらならなくてよい、
客観的、純科学的な立場を。


そこは、いつも、ダムの縁から、
ダムの水を見るだけで、決して水を飲むことは出来ない。


まるで、職業の違いのように。

お笑い芸人と、相撲取りのように。


だから、思想体系という点で捉えるが、
そうなると、各時代の聖者、
覚者に流れるものを捉えられないかもしれない。


この人の思想体系はこれこれ、
この人はこれこれ。
分類して点と見る。

つながりというより、
論理的な、違いを、客観的に測定できるようにする。


そうじゃなくて、共通したものに触れようとすれば、
彼らの臨在に触れうる慈悲が、自然と流れ出すかもしれない。

この世界の視点だと、確固として捉えうるもの。

たとえば、夢を見ているとき、
この現実と呼ぶ世界が見れない。
眠っているから。

その夢の中では、視点が立脚されていて、
だからこそ、夢も際立つけれど。


けれど、

ブッダは、目覚めている世界について語っていたとすると、
それは、この世界の視点では、捉ええないかもしれない。

どんなに、そんな風に取り繕っても。

なので、歴代のスピリチャルなマスターたちは、
教えを教え込むことでなく、
沈黙で、その目覚めた世界の感じを
流していたのかもしれない。


たしかに、誤解はつきものだったかもしれない。


夢の中で、たとえば、気づいて、
夢だと伝えても、誰がどんな反応をする?
なに言ってんのお前?ってなるかもしれない。

例えばの話しで。


これまで、哲学が実質してたことは、
この世界の中に立脚した上での、
可能性の模索かもしれない。


けれど、それを超えて、実在の探求に入っていくかもしれない。

あらゆる分野で。


そして、安らぎから、世界に流れ出すかもしれない。

分離的なものから、恐れだすのでなく。


この部分を論理的客観性は、
捉え得ないかもしれない。

安らぎと恐れの 繋がりを。


なぜなら、おそらく

常に、その視点は、

『この世界』を出たことが無いからだ。


夢の中の住人は、
夢の中で、夢の中から
世界を分類しているかもしれない。


けれど、起きたとき
ハッと気づく

夢だったのか〜!

けれど、それには、
気づき得ない。


もし、哲学、学問的なアプローチが
夢の中の世界の視点からの話ならば、
永遠に実在の話については無知だろう


その無知さを
打ち破るが故の
道(タオ)の努力が、これまでにあったのなら

それはなんと

美しい、賛美歌なんだろう。

 
 
 


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