mixiユーザー(id:6225375)

2017年12月13日07:55

74 view

仙台

最近ちょっとした書き物をしていて仙台について調べている。とはいえ大した仕事ではないし実は震災前くらいのある時期、ほぼ毎月のように(いやもっと頻繁に)その地を訪れていたため、それほど詳しく調べる必要はない。が、知りうる彼の地があの震災前だということ、そうはいっても忘れてしまっていること、によりそこそこの時間を要している。とりあえずは土地勘を戻すため、グーグルマップで幹線道路を走ったりしている。

道の景色に飽きるとシンボリックなエリアや施設などのウィキペディア記事を読み漁る。マップは感覚ウィキは知覚を働かせるので長時間携わっても疲れの偏りがなくてよい。とはいえ、そんなことを何時間も続けているとさすがに疲れる。そして疲れると文章を書き始めるという具合でやっている。基本ドエスで受け身というより働きかけ好きなのだろう、インプットばかりしつづけるとストレスが貯まる。それを可能な限り蓄積して創作欲として一気に放出させるのが個人的なコツだったりする。

仙台について知るとき、やはりあの大災害については避けて通れない。発生時、自分は被災地にも、そして東京にもおらず東海地方のとある場所にいた。その場所でも揺れがひどく、海が近かったため避難勧告が出た。都内で仕事をしていた同僚や知り合いの幾人かは帰宅出来ず、電気の供給もままならない状況下、会社やら駅やら大学のキャンパスやらで不安な夜を明かした。思うに被災地の揺れはさらに激しく、またその後に発生した原発事故は再起の出鼻をくじくには余りあった。そんな具体的な状況を写真やら既述やら抽象的な表現で辿っていると、知れば知るほどその時間その場所との隔たりというのを思い知らされる。結局のところ我々何もできていないし、何もできない、それどころか何かを共有することすら困難だ。

とはいえ6年が過ぎた。マップの景色はすでにリカバーされている。が心なしかぎこちない。そこには何かが足りない気がする。足りないというか決定的に何かが喪失している。恐らくその昔走ったであろう同じ道。もしかしたらそれは自分自身の何かしらが損なわれているからでは‥不安にもなる。過時を盛る器が不安しかない。己が不安なのか世界が不安なのか。景色は何もかたらずただ視界を流れていく。時間もきっとそうなのだろう、それだった結局のところ似たような景色の積み重ねなのだから。
0 0

コメント

mixiユーザー

ログインしてコメントを確認・投稿する