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2017年12月11日08:11

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はたらけ!

SNSでは繋がっているものの、しばらくく会っていない学生時代の知り合いに頼まれスタジオに入ってきた。バンド形態での楽器の演奏。やった楽器の種類が自宅で練習することができないもので、曲目を知らされたものの、曲の構成を覚えることに終始していた。もう長らくぶりで体が動くなあと思ったのだが以外と動けてよかった。やってみれば楽しいもの。自分を含めてデキが良かったとはいえないものの、上手くやれて楽しくないセッションより、下手でも楽しい方がいい。技巧と志をを高め精進することが目的でなければそれはそれでいい、ということを改めて感じ入った。というより万事そんなものなのかも知れない。

そんな楽しい時間があるとはいえ先週末も仕事。もうどれくらい休んでいないだろう、まあ年末だからしかたないか。科学技術の進歩やら永年勤続による仕事の要領(つまりサボる手抜きの手合い)に進歩はめざましいのだが一向に仕事はラクにならない。仕事量が増えているのか、内容が複雑化しているのか。考えてみればそれがテクノロジーやらというダレもがシェアできるものに由来する以上、ラクになるのはダレもが条件も同じ。自分がラクになれば、ダレもがラクになる。そしておそらく仕事が大好きな(もしくは他にすることがない)ハードワーカーが張り切り過ぎてしまい、世の中全体のお仕事ココまでやろうよ(もしくはやるべき)レンジというのを上げていく。ヒトとはそんなもんなのだろし、その職業感やら進化モチベーションの仕組みの恩恵を受けているのだろうから、まあいいのだが、結果自分の土日は仕事で埋まってしまっているのはなんとかして欲しいものだ。

とはいえ、絶対にやりたくないことはやらないし、やりすぎないこと(就労時間のリミットとか)が法律で定められ、厳格化していこうという傾向があるのだから、逃げようと思えば逃げることができるはず。結局自分も働くのが好きなのカモ知れない。引きづられているようで引きづっている。加害者とは往々にしてそうなのだが、被害者づらした加害者というのは、乱暴者なのに寂しがり、のごとく迷惑で扱いが難しい。とはいえ死ぬまで付き合って行かねばならない自分ですらそう思うのに、いわんや周りの人々の心労を察すると申し訳ない気がする。

久しぶりでも楽器ができたのは、筋肉が覚えていたから。躰で覚える、とよく言うが、どうやら筋肉というのにには、それ自体、トドメ置いておく機能があるらしい。オカルト・スーパーナチュラルな類いな出来事やらモノに何かが宿るというのは、実は自分の躰に格納されている記憶やらというのにより引き起こされたり、知覚したりするものなのかも。まあ、脳みそで感じるコトだけが存在する、というヒトの緩慢さなのかも知れないが、そういう風に考えるコト自体も脳みそに支配されすぎている感がある。時には思考を止めて起こる現象やらというのを素直に感じてみるというのも必要なのだろう。

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