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2017年12月04日08:04

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もう.....

気がつけば12月...などという言いまわしを毎年書いているが前回書いたのはつい最近な気がする。しかし確実に1年前。おそらく3月には「もう年度末」‥だったり5月の終わりには「春も終わり」だったり、なんだか最近過ぎ去った悲壮感に斃されて過ごしている気がする、もう長くはないのカモ知れない。というかこれまでに如何に納得のいかない時間を送ってきたのだろうか、ということだろう。しかし、今の非充実を過去の誰かしら(もちろん自分自身を含む)のセイにして良いわけも無くこの瞬間にナントカせねばならない。

おそらく「気がつけば」言いまわしを使う時というのは、それなりに体と心に空きがある時。忙しなくしていればそんな子供のようにおセンチな感慨に浸っている暇などない。12月は忙しいはずなのに、なぜか。その1年で師が走りネコが手を引っ張れ縷々とされ最も忙殺されるコノ時期。とはいえ、その煩忙をビヨンドする切なさというのがあるのか。逆に忙しければ忙しいほど『何もやれていない』感が膨らむ。気温が下がり気圧が低くなれば風船が大きくなる。苛立ちはヤラねばならない具体的な作業、仕事やら大掃除やら、に吸い取れ残るのは憂鬱な思い。なかなかしばれる12月。

仰ぎ見る稜線の下には彩り鮮やかに落葉樹が散りばめられている。波長が長く低い確度から差し込む午前の日差しに映え美しさ、というより場末感がただよう。都会のそれにくらべ大自然に含まれる悲壮感というのは壮大。白い蛍光灯やら落ち着いた間接賞味の下匂い立つ嘔吐の酸味やら、全般の匂いやら、はき出される悪意と絶望に満ちた言葉尻やらにくらべ、語らず、匂わず、小枝ひとつ揺れずとも倒的な絶望の潮流に飲み込まれている気がする。そしてその背景には薄い空。

秋はカラフルな季節である、などとダレが言っているのだろう。たしかに色数は多いが、見て解るという分かり安いかれらの属性すら奪い去ってしまう秋の終末感。季節は巡り、そのサイキュレーションには終わりがない。古より繰り返され、その文化や血の記憶に刻まれているにもかかわらず、秋が終わり3ヶ月も経てば草木が芽吹く春がやってくることを知っている。が、季節は再生するが、ヒトは再生しない。そして季節は戻ってくるからこそ、戻らないヒトであることは悲しい。

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