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2017年10月27日22:57

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自分のためだけの覚書62

■民進存続、新代表選出へ=資金もそのまま−前原氏、特別国会前に辞任
(時事通信社 - 10月27日 16:05)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=4&from=diary&id=4833011

今回の民進党の前原氏の戦術のまずさは、とにかく「手段が目的になっていた」ことに尽きるだろう。

政権交代でも、自民一強の打破でも、打倒安倍政権でも、呼び方は何でもよいが、これらはすべて手段であって、目的ではない。

日本の政治における、各政党が候補者を選出し、選挙によって議員となり、政党の政策を国会で議論し、立法にもっていくという、具体的な活動は、すべて「各政党の政治理念を基に考えられた政策・立法・外交・軍事を行っていく」ための手段である。

それがあるから、自民党は政党理念として、憲法改正がある。
共産党は共産主義革命を起こしたいのであり、かつての社会党は日本を社会主義国にしたかったのである。

政党理念が果たして腹を割っているものかどうかは分からない。そこは信義とか清廉とか潔白とか、明文化しなくても守るべきものとして認識されていた概念に支えられているから、腹を割っているものとして扱われなければならない。そうでなくて構わない。面目とか建前がしっかりしていれば、実際に行われることは違っていても構わない、となるのが日本人、いやアジアによく見られることかもしれない。日本国憲法下で、明らかに違憲である自衛隊を認めたり、中国共産党と、「共産」の文字が入っているのに、資本主義経済を行っている中国だったりが、その実例である。

しかし、それにも限界はある。建前や面目を失うような事が起きたら、それは破滅である。どんな形で失うのか。社会党は政権をとった時に、自衛隊を認めたことで、建前と面目を失った。今回の前原氏の場合は、民進党の党是と相いれない党是を持つはずの、希望の党との合流という戦術で、今までの民進党の建前と面目を失った。なぜこのような戦術ミスをしたかと言えば、手段と目的が入れ替わっていた、ということに尽きるだろう。

前原氏以外の民進党員からすれば、さすがに堪ったものではなかっただろう。私は見苦しさよりも、哀れさ、滑稽さが目についた。議員をやめたら何もできない人間は、こうも哀れになるのか。

いや、彼らの哀れさは、人として当然のことなのだ。もし私が、彼ら民進党員のような立場に置かれたら、どうなってしまうだろうか。
征服者にひれ伏す、被征服者のように、おべんちゃらを使って、掌を返して、臥薪嘗胆だ、今に見ていろと言って、見苦しい真似をしないと言い切れるのだろうか。

そうならないためには、どうしたらよいのだろうか。私はどうしたらよいのだろうか。

民進党関係の連中を政治の場面で見たいと思わないし、関わってほしくないないが、それはもともとの見苦しさからくるものであって、今回の件については、なんと哀れで滑稽なことだったろうか。

今回の選挙は、まれにみる、「悲喜劇選挙」と言えるだろう。
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