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2017年10月23日01:34

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自分のためだけの覚書61

「人間ってなんだ?」というNHKの番組の第3回、「発想する」ということについての番組を見ていて考えたことを残す。

まず、レンブラントの画像をピクセル単位で読み込んで、レンブラント風の作品を作ったとあるが、では、「誰が」「レンブラント風だ」と「価値判断」をしたのかは話していなかった。

最大公約数っぽいレンブラントだと、番組に出ていた画家の方が言っていたし、番組にでている教授も、「はじめはダメな作品もたくさん作っていた」「それを修正していって、これができた」「人間はまねて発想に至っているのだから、それでも良いではないか」と言っているが、「誰が」「修正」をAIに促しているのか。

AI自身が、AI自身に修正を促すことはないのだろうか。

さまざまなものを組み合わせて、新しいものを生み出していくというのは人間が行っていることでもあるが、生み出したものを「どういう価値基準を持って」「修正を」「促していき」「次に違うものを作り出す」のかがわからない。

チュートリアルの徳井氏が、「あめま〜というかんぺいさんのギャグは、ねらって作ったものではないはず」という話をしていて、「お客様が喜んでもらって初めて幸せ」という話をしていた。それは絵だったり、サルとシェークスピアの思考実験だったりの話の中で、「狙って作っていない」という話の流れで出てきた話であった。

つまり、リアクションを返してくる対象があって、リアクションにたいして、どう返していくのか。そして、返してきた対象を、個人ととるのかどうとるのか。

人間は、一切話をしない、コミュニケーションが取れない、魚を観賞する。AIはそれができるのだろうか。魚は一切人間に対してリアクションを示さない。私たち人間が、「手前勝手に解釈しているだけ」である。

この「手前勝手に解釈」する基準も、私たちは時と場合で、「自分勝手に」変えている。それを成長というか、変化というか、劣化というか、それも時と場合で変わる話である。

さらにさらに、成長・変化・劣化という「言葉」を、新たにAIは作り上げられるだろうか。

最近、AIとAIが、人間には理解できない言語で言い合いを始めたという話があった。
では、そこからAIが、「人間でも何でもいいから」「自分の身の回りにある道具を使って」「自分と異なる対象に、敵対行動をとる」ところまで進むのだろうか。そして、このときに、人間を頼らずに、自分の行動を修正することができるだろうか。

シンゴジラの監督は番組の最後に、「いいかげんなところが、人間の生み出すすごいところのはず」といい、教授は「良い意味のいい加減」といい、徳井は「人間には人生がある」と言いだした。

「死ぬ」人間と、「死なないAI」とで、思考が変わってくるというのは、非常に良い視点だと思った。

小尾修さんという、前述の画家は「崩すことができるのか」と言っている。

そこにあるのは「飛躍」「想像」などであるが、私はそれらの根幹にある「どうなりたいのか」という意思が、人間とAIとの違いではなかろうか。

さらに、リアクションを返してきた対象が、個人なのか社会なのか。そして自分という「個」が、歴史からどういう位置づけの場所にあるのかなどなど、それこそ人類が4000年かけて作り上げてきた、各「文明」「文化」を、AIだけが、人間の手を借りず、単独で生み出し、そして次代に受けつぐというところまでいかないと、AIは人間と同じとは言えないと思う。

さらに、AIは自分以外のAIを、生み出せるのか。
機械の世界に生きる限り、機械は経年劣化で必ず死ぬ。さらに、電気がないと動けないのだから、人間が小麦や米に、ある意味奉仕し続けないといけないように、AIも電気を生み出すことに、電気という対象に奉仕しないといけない。

この「生産」「消費」という概念も、AIは、生み出すことができるのだろうか。
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