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2017年09月29日08:10

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スゴいひとたち

昨日、著名なコピーライター氏の講演にいった。なんだかんだ、しがらみもあって、さまざまな分野人々の話を聞く機会が多い。マーケティングやらブランディングやら。穿った見方に振れてしまえば、ずいぶん胡散臭い分野が多い。コピーライターというのも、一見同じムジナな気がするのだが、講師が一流だったからか、なかなか素晴らしいお話だたった。世の中にはさまざまな分野の講師というのはいるのだが、特に自分が行く(イカされる)ヤツというのはおおむね自慢話系が多い気がする。他人に披露するくらいなので、唸る...まではいかずとも、それなりに見上げたもんだ..な逸話が多い。しかし、どうも「オレが若い頃は」的な話を聞かされているのと同じ感覚になる。がライター氏はそうではなかった。

やはり言葉を扱うプロというのはそうでなければならないのだろろうが、商売道具であり商品である言葉についての集中の仕方が半端でなかった。発する言葉を発する前に熟慮し、無駄に吐かない。それでいて、妙な縛りや虚仮威しがあるわけではなく、熟慮を感じさせない軽やかさもある。加えていうと、ちゃんとしたヒトだった(というと失礼だが)。話を訊く前、コピーライターというと、面と向かって話すと「何をいっているのか意味不明のヒト」というイメージがあった。フレーズで刺す仕事だから、思いつきの感性が研ぎ澄まされていれぼよく、その代償として、ロジカルな言いまわしやら発送やらというのが損なわれている感じなのかと思っていたが、そんなことはなかった。

コピー自体は、刺さりはするのだが、国語教師的には不正解であり、「大の大人がそんな日本語つかってんじゃねえよ」と揶揄されそうだったりする。だから、長い文章や語りをダメ、というのは一方的な決めつけであり、だいたい、一流ライターは一流ライターである前に、一流のヒトなのだろう。一見思いつき、深く考えれば考えるほどセンスが濁っていく、というイメージなのだが、そのテンションなのは最後の最後のコピーをひねりだすプロセスだけであり、そこにいたる状況分析、雰囲気設定などは、発想も体系的で工程的にも綿密に設計、管理され、然るべき常識もしっかりとコミットされている。さすが。

なにかをを尖らすために、通常人が当たり前に備えている感覚なりを損なわなければならない、というのは、唯一の選択ではないことを知らされる。捨て身の選択肢というのは、そうそう採れる訳でも無く、おそらく長続きしない。そしてそんな重すぎる制作物はちょっと引かれるご時世だったりもする。己の不幸の落とし前をつけるような創作行為というのは、その特殊なサイクルを伝播させる効果もあり、その落としドコロとして具現化するスキルを持っていないヒトに宿ってしまうことはリスクを孕んでいる気もする。本人が辛いか、辛さを抱えられなくなって世間にとって残念な現れ方をするかも知れない。まあ、凄いヒトの話を聞くと、いろいろと考えさせられる。
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