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2017年09月27日11:04

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自分のためだけの覚書57

出されたものを残してはいけないというのは、仏教の思想から始まっている。

人間は生きる上で、必ず他の生物を殺傷して生きている。植物も生きているし、動物も生きている。その中で自分の生きるための糧となってくれた生き物に敬意と感謝の念を持たなければいけない。持たずに、全ては自分のため、人間のために存在していて、敬意と感謝の念など持つ必要はない、という人は、自分以外の存在を認識していないから、死後畜生道に落ちると言われる。

さて、食べ物を残すという事は、残された食べ物の命は、無駄死にであり、残した人が罪もない命を殺したということと同じである。

なので、目の前に出された食物は、全て平らげ、自らの生きるための血肉に変える。それが自分のために死んでくれた食物への感謝を表すことになる。

また、食べきれないほどの食事を作ってはいけない。これも無駄な殺生を避けるためである。腹が膨れればいい。また命をつなぐだけの量があればいい。それ以上は貪りにあたり、餓鬼道へ至る道である。

また、食べられない物があれば、事前に調べておいて、相手に伝えることも、無駄な殺生を避けるために必要な事である。

これらの事は、お釈迦さまもやっている。お釈迦様は自分に捧げられた肉を食べたことがある。それは目の前の食事を残さず食べる事という念から行っている。

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(以下の文は私の間違いであった。いわゆる脳内ウィキペディアであった。
元々、仏教は肉食禁止ではない。一部の流派が禁止しただけである。
私が間違えた理由は、無駄に贅沢なものを用意するな、という教えと肉食がごっちゃになってしまったからである。)

そして、食べた後に、「私(お釈迦様のこと)の食事のために生き物を殺してはならない」と告げている。これが相手に伝えておくことの念につながっている

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一部の仏教では、この「食べられない物」が「生臭もの」を取らないという戒律につながり、ほぼすべての人が知るようになったから、ここまで話をする事はないが、一般の人にとっては必要な事であろう。

更に言えば、カルネアデスの板のように
「飢え死にしそうな時に、施しを受けることが出来たが、その施し物が生臭ものだった場合、どうするべきか」
という問いもある。イスラム教にも「旅先で豚しか食べるものがなく、死にそうになっている場合はどうしたらいいですか?」という問いがある。

この答は「しょうがないから食べてよし」「命大事」というものである。私は大学時代、「カツカレーうめー」と言っている、イスラム教徒のアラブ人学生を知っている。「それ豚だけどいいの?」と聞いたら、「あんまりよくないけど、旅先だからしょうがないよー」と言って、何度も食べていた。その時「ああ、こうやって教えの拡大解釈と、骨抜きが行われていくのだな」と納得したものである。

閑話休題。

学校で宗教に関わることを教えられなくなった。それはしょうがないことではあるが、道徳観念は宗教観念と密接につながっていることが多い。食べ物を残してはいけないという教えを、お釈迦様に絡めず教えることは出来まい。なぜなら、お釈迦様という「みんなが真似するべき存在」をなくしたら、全ての訓えは相対的なものになり、「僕はそう思いません」と子供が浅知恵を働かして、違う事を言えば、終わってしまう話だからだ。

それでも、この話は教えてよい話だと思う。食べられないものがあれば、配膳の段階で取らないようにするとか、事前に伝えておくなどはするべきである。

更に、完食前提とすれば、そこで子供たちの悪知恵が働く余地が出来る。口の周りを拭くようにしてティッシュに吐き出したり、かまずに飲み込んだり、誰かにあげる、または押し付ける、これを食べてくれ、代わりに俺はこれを食べようという交渉が行われたり、トイレに行って吐き出したりと、どうにかこうにかして逃げようと知恵を働かすだろう。それは学校では教えられない「知恵」を身に付ける絶好の機会である。悪知恵だが。

大人としては、厳しく見張ってよかろう。これを切り抜けることも、悪知恵には必要な事であるから。

■給食の完食指導で5人が嘔吐 小学校教諭を厳重注意
(朝日新聞デジタル - 09月26日 12:20)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=168&from=diary&id=4783919
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