宗教を迷信だとか、非科学的だとかいう人は少なくない。
だが、本当にそうだろうか。
神に祈ったからといって、神がなにかを与えてくれるわけではないし、問題を解決してくれることもない。祭祀を行ったところで災害はやってくるし、道を究めても不老不死にはなれない。仏様がこの世に現れて人を導いてくれることも、ない。
だからといって宗教は不要なのだろうか?
私は仏教徒であり、家としては浄土真宗の門徒でもある。
とはいえ、別に毎日修行していたり、読経していたりすることはない。ただ、仏教徒として、悪いことは(できる範囲で)せず、よいことを(できる範囲で)行い、自分を清め(たような気分になる)ぐらいに過ぎない。
神や仏が見ているからそうするのではない。自分が納得するためにそうしている。毎日をそうやって暮らすことで、悔やみながら死ぬことから少しづつ遠ざかろうとしている。
これはどんな宗教でも同じではないだろうか。
来るべき審判の日に、自信を持って神の前に立つことができるように生きるか、神の怒りを恐れることになるか(これはユダヤ教でもキリスト教でもイスラーム教でも同じ)。
自ら仏となる(輪廻転生から開放される)のにどれだけの時がかかるか。来世が極楽浄土という仏になるための修行の場か、それとも人間となるか、畜生や餓鬼になるか、地獄に落ちるか(といっても日本でよく知られている地獄は道教風味)。
食事の前に「いただきます」、終わったら「ごちそうさま」というのも、本来必要ないことだし、店で買い物をしたとき「ありがとう」という必要もない。店員から「ありがとうございました」と言われる必要も本来、ない。
食事という行為は生物として当然のものだし、商売の場で礼をいわなければならないことも、ない。
その言葉を口に出すことで、ひとがほんの少しでも幸せになれるのなら、それは自分にとって「よいこと」でもある。そうすることとによって、少しでも「解脱」に近づけるからこそ、私はそうしている。
負の感情を口に出しても誰も幸せにはなれない。自分が少しでも楽になるならいいとは思うが、私はそうやって楽になれる人間でもない。だから「いや」「嫌い」という言葉はなるべく書かないし口にも出さない。
私がそれを知ったのは宗教を通して、だ。もちろん親や教師からも教わったが、納得したのは古い経典(の和訳)を読んでからのことだ。
寺をたずね、坊さんと話をしても、知り、納得することは多い。まあ、法事などの説教は「方便」を駆使していたりするので首をひねることも少なくないが・・・
ほんものの、宗教は決して悪いことを教えてはいない。
宗教を利用して悪いことをする連中がいないわけではない。
だからこそ、ひとは自分で宗教書(経典や聖書、コーラン、記紀などなど)を自分で読んで考えてみるべきだと思う。
その中に、自分が納得できる事がらがあるのなら、ひとを幸せにするために役立つなら、実践してみればいい。気が向いたら、寺、神社、モスク、教会に布施・寄付・寄進・喜捨をしてもいい。
宗教とはそういうものではなかろうか。
■「もはや住職が副業…」困窮するお寺が増えている理由
(AERA dot. - 06月26日 11:32)
http://news.mixi.jp/view_news.pl?media_id=173&from=diary&id=4638481
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